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暗い森の少女 第二章 ⑦ 夢の欠片

夢の欠片



なぜだろう。
北向きの座敷は凍えるようだった。
広さだけはあったが、座敷の真ん中にがっしりした格子が取り付けられて、すきま風が入ってくるような窓側しか使えない。
窓の外にも格子があり、逃げることさえできない身の上だ。
大好きだった着物も、かんざしも、今はない。
乱れた髪を背に流して、身につけているのは薄紫の襦袢、それを映す粗末な鏡台だけが与えられている。
日に三回、豪華な食事は与えられたが、それも冷え切っているので食べると体が冷える。
便所にも行かせてもらえず、部屋の隅に置いてある壺にするしかなく、部屋には異臭が漂っている。
どうしてこんなことになったのか。
一人娘として大切に育てられ、手に入らないものはなかった。
屋敷の当主である祖母も、父も母も、ふたりの兄にも、手放してで可愛がられたし、一族の者はみな、姫君のようなあがめていたはずだったのに。
ある日、その生活は奪われた。
はじめて父に手を上げられた日、世界は反転したのだ。
下の兄には虫けらを見るような目で見下ろされる。
そして、豪奢な部屋から無理矢理追い出されて、この座敷に押し込められたのだ。
母と上の兄だけが味方であったが、母は娘を心配するあまり病に倒れ、上の兄は娘を何度か逃がそうとしたため、これも蔵にしつらえられた座敷牢で暮らしているという。
父はもう、娘の顔も見たくないのか、まったく訪れはしない。
娘は泣いた。
泣いてもなにも状況は変わらないどころか日に日に悪くなっていったのだ。
なにもかもお前のせいだと、下の兄は座敷にやってきては、憎々しそうに娘を睨む。
髪を掴んで引きずり回し、頬を張り飛ばし、そして腹を何度も蹴り上げる。
目の前が暗くなり、口の中には鉄の味が広がった。
何日この部屋にいただろう。
屋敷に奉公に来ていた、一族の少女が食事を運んできた。
食事を運んでくる者は、みな一様に忌まわしい者を見る目つきで投げるように食事を置いていったが、その見慣れない、まだ少女は丁寧に膳を娘の前に置く。
皿の下に、細いこよりが見えた。
下の兄に殴られて腫れ上がった瞼が見開かれるのを確認すると、少女は頷き、静かに部屋を出て行った。
足音が消えるのを待って、娘はこよりをほどいていく。
見慣れた文字。
たった一言、
「迎えに行く」
と。
待ちわびた文、待ちわびた言葉。
感極まって娘が忍び泣いていると、遠くから乱暴な足音が近づいてきた。

暗闇で花衣は目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのか理解できなかったが、動かした視線は見知った自分の部屋だ。
5年生にもなって、いつまでも祖母と一緒の部屋で寝るのもおかしいだろうと、母が花衣の部屋にベッドを置いてくれた。
小さな4畳半の部屋は、勉強机とタンスにベッドで窮屈ではあったが、悪夢でうなされる夜、こうして起きては祖母の寝息をうかがっていた頃に比べると、自由が広がったようだ。
子供の頃から、鮮明な夢を見ては夜泣きする花衣のことを、祖母はいぶかしく思っているようだった。
花衣が鏡の中に自分以外のひとが映ると言ったあたりから、さらに祖母は花衣の精神の脆さに悩んでいたようであったが、まずそれを母に相談するより、家族の誰にも気づかせまいと一生懸命になっている。
祖母の独りよがりな家族愛に、花衣はもう疲れ果てていた。
村の中に溶け込みたい。だが、娘も息子も努力してくれないのなら、孫娘を「正しく育て」、村人からも葛木本家からも認めて欲しい。
生まれてすぐ曾祖父から捨てられるように自分の叔母に預けられた祖母は家族の絆に飢えていた。
それならばどれだけ貧しい家の息子でも、村の男と結婚すればよかったのに、祖母はこれもまた余所からきた祖父に嫁いだ。
せめて村を出て行けばよかったのに、曾祖父のそばを離れがたい気持ちが強く、祖父にこの土地に家を建てて貰い、曾祖父の関心を得ようとむなしくあがいたのだろう。
子育てもうまくいかなかった。
長女である花衣の母親は、閉鎖的な村にまったく馴染もうとしなかったし、下の叔父は悪い仲間と集まっては問題ばかり起こす。
長男の上の叔父は大人しかったが、それだけが取り柄で、結局村の中でも職場でも軽んじて扱われているようだ。
祖父のことを夫として選んだからには、それなりの愛情はあったのだろうが、祖母の望みは叶えられない。
家族が一丸となり、この村で認めてもらえること。
もうその願いが諦めそうになった時、曾祖父の死から、自分が葛木の直系の血筋であることを知った。
「馬の骨」
と呼ばれて暮らしていた祖母には、どれだけ脈々と受け継がれてきた葛木家の末と自慢したかったか。
花衣には想像もできない感情であったが、祖母の言葉のはしはしに感じてる。
なぜか、祖父が葛木家の血筋であることを吹聴しないようにと祖母にきつく言ったと、いつか祖母が嘆いていた。
祖父が亡くなったあとは、母が止めていることにも知っている。
いくら古い血筋でも、村から遠く、隠れ住んでいる葛木家と縁があるなど、誰にも相手にされないはずだ。
しかし、他にには誇れることがなにもないのか、たまに葛木の家系図を開いては自分の名前の部分を撫でていた。
哀れだ。
両親の愛を知らず育ち、夫には先立たれ、住んでいる村からはいつもよそ者扱いであった祖母に、あの墨で書かれた文字だけが頼りなのだろう。
自分はもう嫁いだ身、葛木家には受け入れてもらえない。
だから、花衣を養子にして跡取りにという話は、祖母を有頂天にさせた。
娘が産んでしまった私生児が、葛木家の跡取りになる。
それはもう狂乱した夢であった。
花衣を手元で育てたい気持ちに孫に対する愛情はあったはずが、いつしかただの金づるである。
そして、自分が叔母が芸者であっとこと、娘が未婚で花衣を産んだことで、常に葛木家からは厳しい目で見られ、もしかしたら花衣は跡取りの座から降ろされてしまうのではないか。
小さな頃は、内向的なだけだと思っていた花衣が、いくらか「普通の子供」ではないことを、育ててきた祖母にはうっすらとわかっているようだ。
少しでも花衣が「普通の子供」と違ってしまえば、やっと見つけた「本来自分のものであった場所」に、花衣と共に見捨てられるのではないのか。
祖母が花衣を見る目には疑いの色がある。
村の子供たちや一部の大人にされたことを、祖母は気がついているとは思えない。
気がついて見ないふりをしていたのならどうなのか。
先ほどまで見ていた夢のせいか、花衣の思考は驚くほど冷めていた。
時計を見ると、まだ3時だ。
ゆっくりと起き上がり、自室の隣の台所に忍び込んで生温い水道水を飲む。
やっと自分の体が取り戻せたような気がした。
(あの夢の座敷は、本家のあの和室だ)
ベッドに戻り、花衣は消えそうになっている夢の欠片を掴んだ。
あの襖に描かれた絵、飾り棚、窓にある格子。
広い部屋を区切っていた木の格子は今はないが、あの、窓辺に置かれた鏡台も、夢には出てきていた。
花衣は開いたことはないが、三面鏡だろうあの鏡台を開いて、夢の中の人物はなにを見ていたのだろう。
兄に引き抜かれるほどの力で捕まれてざんばらになった艶のない髪、蝋のように白い顔、しどけない襦袢姿の自分。
花衣は浅い眠りで夢の続きを見た。
こよりを胸に抱いて、娘は鏡を開く。
あざだらけの顔をあのひとはどう思うだろう。
乱れた髪を手ですいた。
せめて笑顔で会おうと、娘は小さく鏡に微笑みかける。
しかし、三枚の鏡に映っていたのは、自分でなかった。
一枚の鏡に映っているのは老婆である。
いくつ年を重ねたのだろう、目も口もしわに埋もれているようだ。
どこか見覚えがある姿に、娘は何度も顔を確認する。
誰だろう、と思いつつ、別の鏡を見ると、そこには知らない少年がいた。
長い前髪が目を隠している。
顔立ちは整っているが、歪んだ性格を表しているように、皮肉そうな口元をしていた。
この少年にも、見覚えがある。
慕わしさを覚えて、娘の心は揺れる。
そして、最後の一枚には、3歳くらいの幼女が映っている。
髪の毛をふたつにわけて耳の後ろでくくり、ピンク色のワンピース姿の幼女は、訴えかけるように鏡の奥で叫んでいるようだった。
娘は少し驚いて慌てて鏡を閉めようとしたとき、誰かが襖を激しい音を立てて開けたようだ。
鏡が閉まりきる寸前、鏡の中に映っているのは、花衣だった。
合わせ鏡で幾重にも重なった花衣は、娘がこれから受けるだろう辱めを思って、悲しい目で見つめている。
(ああ、ただひとを好きになっただけなのに)
好きなひとの子を身籠もっただけなのに。
花衣の見ている景色は、閉ざされた鏡の中で散り散りになっていった。


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