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考えることと感じることの調和がとれたら人生はシンプルそうだ。

最近の心の動きについて。

ありがたいことに、ラジオや研修など、自分達がやってきたことを少しだけお話しさせていただくような機会が少しずつ増えてきています。

移住して、里山という生かし合う暮らしを作るために、また自分達が実験してみたかった暮らしや生き方の模索のために日々を過ごし、
あっという間に日々が流れていってしまうので、ついつい丁寧に日常を捉えることをないがしろにしてしまったり。

やらなきゃとはわかっているけど、機会がないとなかなかそこまで考える時間は取れなくなってくるんだなと実感しています。
なので、さまざまな形で立ち止まる機会を下さる皆さんにとても感謝しています!


さてそんな上で、僕たちが最近感じていることについて。


元々は環境への配慮のため、社会課題の解決のためにやってみようという気持ちが強かったように思います。
でも日々を過ごしていくうちに、少しずつ「環境のために」という感情が薄れていってるような気がしています。

それは、環境のことがどうでも良くなったということではなく、
「自分達が心地よい暮らしをしようと思ったら、
環境や周囲の人に配慮するのは当たり前」というふうに、以前よりはるかに
生活するために考えるべきことのような、
生活レベルに落とし込まれたような感覚を覚えています。

以前までは、この行動が環境にどんな影響を与えているのか、
エシカル消費など、どんな形で環境に優しくすることに拘るのかといったように、
”わざわざ頭で考えたり可視化して行動を決める”ような感覚があったんだなと。

その時はどんなに考えたって、「頭の中での理解や納得」に紐づいて
日々の行動を選択していたように思います。

でも今となっては、それは考えて当然のことのように思えています。
もちろんどっちがいいとかといった単純な話ではなく、
あくまでひとりひとりのライフスタイルに合わせて濃淡はあるので
一概に言えることではありません。

でも、社会に違和感を感じ、
「地に足をつけた暮らしを実践してみたい」と思った僕たちにとっては
生活レベルで感じて、エシカルや環境への配慮が暮らしに溶け込んでいるのは
とても重要で今後の判断軸になるような、小さくて重い学びです。

このささいな変化を忘れずにしたいなと心から思っています。
気を抜いたら、次は感じることや今あることに集中しすぎるあまり
「頭で考えるのではなく感じるのが当たり前」になっていってしまいます。

感じるのはすごく大切なことだけど、やはり
視野と時間軸が小さくなりがちなように感じます。

一番大切にしたいことは、
心と体、頭と身体、論理と感覚のような対極にあるものを
両立しながらバランス良く思案し、行動していくこと。

難しいけど、それが孔子の言葉で言う
「中庸」と言う感覚なのかな〜と思います。

昔の人はすごい。
人の普遍的な悩みや課題は、当時から変わってないんだなと痛感します。
僕はこんなことを考えている時間がとても豊かで楽しく思えます。

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