見出し画像

日記 20220704

 今日はちょっと後ろ向きな内容かもしれない。

 仕事の内容にかこつけて、愛し方の話をしたのだけれど、このところ、ボランティアの仕事等をしていて思うのは、私は多分人並み以上に色々なことができるということだった。

 自慢か? という感じだと思うけれど、私は昔から自己肯定感がとても低かった。あまり人とうまく接することができないでいたし、高校時には学業で一時挫折もしている。一方で、その挫折は主に数学だけのことで、国語や英語、社会科科目では困ったことがなかった。当時の私は自分の足りないところだけはよく見えていて、自分を落ちこぼれだと思っていたが、自分が人よりできていた多くのことは、当たり前すぎてまるで見えていなかったのだ。

 人とうまく接することができないという体感は、私の中に長らくあったけれど、それも今の生活で関わる人達に対する自分の行動によって更新されつつある。今でも世間の人と比べたらあまりうまく接することができていないだろうが、過去の私は、このことでそこまで自己肯定感を低くしなくても良かったのではないかと思ったのである。

 要は、私の思う愛と、周りの人の思う愛は違うのだ。

 私が、色々なことを他の人より少しだけうまくできることにもっと自覚的になって、それをぎょうとして周りに施せていたら、人はそれを愛とか、思いやりだと呼んだのではないか。

 私からしたらこんなことで? ということで、人は心を動かされる。私は愛というものは、大変で与えるのも維持するのも難しいものだと思っていた。だから自分は友人にせよ恋人にせよ、うまく愛せていないと思っていたけれど、私にとって与えるのが難しいなにものかは、世の多くの人にとってはもっと与えるのが技術的には難しいなにものかなのだ。
 私は自分にとってはささやかすぎる気遣いや薄味の言葉を大切な人に与えていれば良かったし、そのささやかさのバリエーションを増やすべきだったのだ。それでは私は相手のことを愛していると実感できないだろうが、相手の方では私の実感など求めてはいない。そして私自身も、もっと淡々と、求められていること、必要とされていることを実現させていれば、自分が愛しているという感覚を犠牲にしたとしてもなお価値のある、自己肯定感を得られただろうと思うのである。
 元々、人に対して強い執着がある方ではなく、何か物事をうまく運べた時や思考能力を発揮した時に喜びを覚える方なのだから、他者に対して強く自分の心情を揺さぶらせる方に無理に意識を向けなければ良かった。それを、私はコミュ障だし、などと言っていたのだが、甘えであった。極端に言うと、私が自覚して能力を鍛えれば、その場の人全員を心では軽蔑し、心底嫌っていたとしても、彼らの心情を呼んで自分の思うまま動かし、ほくそ笑むことが出来たのではないか。

 ……みたいなことを最近考えている。上記のことを全部本気で思っているわけではないし、多分に傲慢だと思うけれど、書こうとしている話の登場人物の性格づくりなどにも活かせるかもというような思いもあってつらつらと書いている。

 なんだかここ数日、ずっと悪い夢を見ているような感覚が続いている。日々目の前のことを頑張っているけれど、いつもくたくたで、そんなとき強烈な予知夢的な既視感に襲われる。仕事に追われ、どうしようもない睡魔に襲われるまでデスクで粘り、そして電池が切れたように眠る。これが夢だったらいいと思うのだけれど、夢から出られなくて息苦しい。夢から覚めて、どういう現実に戻りたいかも分からない。
 私がもしうまくやっていたら得られたかもしれない、誰かとの現在は、本当に私が戻りたいものなのだろうか。そうではないから私は自分でそれを壊したのだと思うが、代わりに得た(というのは少し変な表現なのだが)今の現実も私が望んだものとは思われない。私が十代から自分の能力を自覚して研鑽を積み、過去のあの時点で上記のような、サイコパス風味のあるガチエリートになっていたら、人生色々違ってたんじゃないか。何を言っているか自分でも分からない。読者にも恐ろしいものの片鱗を味わわせてしまったぜ。

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。