見出し画像

ないたあかおにについての凡庸な考察 

 子供が今国語で習っているのが「ないたあかおに」で、毎晩その音読を聞かされる。また、えらく感情をこめて読むものだから、自分が幼少期に感じたことを追体験させられてつらい。

 あおおには、あかおにに「自分が村でらんぼうしよう」と言った時点で、あかおにともう会えなくなることまで想像できていたと思う。それでも、あかおにのためならと、嫌われ役を買って出た。

 あかおには、あおおにの計画通り村人と仲良くなれはしたけれど、それはあかおにが村人をもてなすからであって、村人はあかおにのために何かしてくれるわけでは(少なくとも作中では)ない。村人はもしかしたら、あかおにがもてなさなくなったら、やっぱり「肌の色が違うから」「角が怖いから」と寄り付かなくなるんじゃないだろうか。所詮、あかおにが鬼であるという先入観があった村人たちなのだ。

 あかおには、そんな村人と仲良くしようとしないで、ずっとあおおにと仲良くしていればよかったのにねえ。

 また、これは大人になった今思うのだけれど、あかおには、あおおにの提案があるまで、ただ立札を立てて、お客が来るのを待っていただけなんだよね。本当に村人と仲良くなりたかったら、何か畑の仕事を手伝ってやるとか、待ちの姿勢じゃない何かを、自分からしなきゃいけなかったんじゃないだろうか。たとえ仲良くなるきっかけがヤラセであっても、そこから村人とよい関係を築いていけばいいと言えばそうだけれど、最初が他力本願な関係が、あまり上手くいくとは思えない。

 あかおには普通の鬼とは違って、乱暴者でもなく、人と仲良くしたいと思っている鬼だった。あおおにはあかおによりは「普通の鬼」寄りなんだろう。とすると、あおおにはこれまで、変人……いや、変鬼のあかおにの変なところも友情で包んであげていたり、鬼仲間があかおにを悪く言うのを擁護していたりしていたんじゃないか。あるいは、あおおに自身も、あかおにに対して「あいつ、もうちょっと活発でも(=乱暴でも)いいのに」「なんで村人なんかと仲良くしたいんだろう」と疑問を持っていたかもしれない。それでも、友人であるあかおにの意思を尊重して、あかおにのよいように動こうとしたあおおにと、その気持ちに全く気が付かないで、自分のことを冷遇する村人に近付いていく、お目出たい思考のあかおに。

 あーつらい。

 ……もしかしたら、あおおには、あかおにの思う通りにしてあげようとするのと同じぐらい、ちょっと変わり者の友人と少し疎遠になれてよかったーなんて思ってるかもしれないけれど。

サポートいただけたら飛んで喜びます。本を買ったり講習に参加したりするのに使わせて頂きます。