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小説 ひつじ治療院

 半袖シャツから出た私の腕を、太陽が容赦なく灼く。湿気がないだけましだが、気温はすでに盛夏のそれだった。空の高いところから降り注ぐ光は信用金庫の看板も、砂利が敷き詰められた駐車場も、そこに停まる黒いAQUAをも白茶けさせる。私は目の前のビルに入るべきか入らざるべきか決めかねて、ぼうっと立っていた。脇を走る県道はそれなりに交通量があるが、土曜日なのに歩く人がいないのは幸いだった。こんな片田舎で、見慣れない顔の人間がひとところにじっとしていたら、地元の住民に怪しまれる。逆に、人目を気にしなくて済んだから、まごまごしていたとも言える。

 ビルは雑居ビルともオフィスビルとも住居ともつかない五階建ての建物だった。本当にここに目的の店があるのだろうか? 飲食店用らしい一階は全てシャッターが閉まっていた。三階から五階の窓ガラスは灯りとりくらいの大きさしかなく、押しなべて室内は真っ暗だ。ベランダから鉢植えだの洗濯物だのがのぞくビルの裏側から回り込んで来ていなければ、住居だとは思えないだろう。肝心の二階も、「恵明インターナショナル」という会社名が貼られている窓以外は暗く、人の気配はしない。ただビル脇に六つある看板には、恵明インターナショナルのほかに、(株)サンシャイン、ひつじ治療院の字が残っていた。

 結果は分かっているようなものだったが、私は狭い階段を上がり建物内部に入っていった。やはり真ん中以外は空き室であるようだった。もうここには二度と来ないのだから、恥もないだろう。私は恵明インターナショナルのジェラルミン風のドアをコンコンと叩いた。やや間があって、低い男の声が聞こえてきた。

「なにか?」

 ドアを開けて出てきたのは年の頃三十代半ばか四十代前半の、小さな関取ほどに太った男だった。たった今まで昼寝でもしていたかのように目がどろりとしていて、ワイシャツの右端がスラックスからはみ出ていた。私は無意識に鼻孔をへこませ、なるべく男の発する臭気を吸い込まないようにした。

「お忙しいところお手数おかけします。となりのひつじ治療院のことで、少しお聞きいたしたく……」

 私がそう言うと、元々覇気のなかった男は目に見えて捨て鉢な表情になった。

「隣は何年も空いてます。僕がここに入ったころには、たまに店を開いてたみたいですけど」

「経営してた人の顔とか、憶えてらっしゃらないですか」

「さぁ……。すみません」

 「もしかして、曜日限定で営業されていたとか、ないですか」などと聞くこともできたが、この人相手にこれ以上得られるものはなさそうだった。私は礼を言ってその場を辞した。予期せぬ訪問者に苛立ってドアを強く閉められるかもしれないと身構えたが、ドアは軋みながら緩く閉じていった。やはり、ここにも彼女は居なかった。酸っぱくて苦い唾液が喉の奥から湧いてくる。しかし私は失望と同じだけ、見付からなくて良かったとホッとしてもいた。

 駅に戻る道すがら、「ほぐし屋 やわらぎ」という、相田みつを風の看板を掲げたマッサージ屋を見つけた。ドアを開けた時に鈴が鳴るようにしてある仕組みがいかにも古臭かったし、店内のシートカーペットは妙にぐにゃぐにゃしていて、床から腐っているようだった。店に入ったのを後悔したが、もう引き返せない。

「お客さん、ものすごく凝ってますね。今他の予約もないんで、サービスに肩甲骨はがしもしておきますよ」

 店主だろう男はくたびれた店構えに比して若く、二十代半ばといったところだった。身長180センチはゆうにありそうな、恵まれた体格の持ち主で、盛り上がった上腕の筋肉はからりと日焼けしていた。言われるままドーナツ型になったベッドの頭部分に顔を埋めると、男は遠慮なく私の肩甲骨辺りに手刀を打ち込んだ。
 大体肩甲骨はがしってなんなんだ。ここに限らず、色々なマッサージ店で目にする言葉だが、本当に骨が外れたら大事故だ。凝り固まりやすいその部位をほぐしますという意味なのは分かるが、どうにも馴染めない。彼女はそんな言葉を使わずとも、私の体をほぐしてくれていた。
 ぐいぐいと男の硬い手の平の肉が私の体を蹂躙するだけでかすかな不快感があるのに、「腕を頭の方にあげてください」などど頻繁にポーズの変更を指示されるのが五月蠅かった。帰りの私電では、マッサージされた時よくそうなるように、頭がぼわっとした。案の定翌日は背中全体がひどい揉み返しに襲われ、揉み返しが消えるころには、私の肩は施術前と同じだけ、重たくて融通の利かない塊に成り果てていたのだった。私は「きっと彼女だろう」と思ってフォローしていたTwitterアカウントをまた一つブロックした。裏切られた気持ちだった。しかしこの中の人も、得体のしれないアカウントにフォローされて気味が悪かっただろう。

 彼女に最初に出会ったのは、普通のマッサージ店と怪しいマッサージ店の合いの子のような店だった。私は自分からはそんなところに行かない。仕事で家に帰れない日が幾日か続いたときに、目が針に刺されたように痛んで涙が出続け、パソコンの画面が見られなくなった。施術時間の分だけ確実に作業は遅れるので迷ったが、会社の住所でマッサージ屋と検索して最初にヒットした店に電話をしたら、すぐやってくれるという。薄い紙パンツだけの姿にされ、全身にオイルを塗りたくられた時に、そういうマッサージ屋だったかもしれないと気付いたが、担当した女の施術は的確だった。私は肩まわりだけほぐしてくれればよいと思っていたが、鼠径部のある箇所を押されて悶絶した。彼女の指が離れると、血流がふくらはぎや足指に向かって勢いよく走るのが感じられ、自分が下半身にも重だるさを抱えていたことに気付いた。目隠しのタオルをさりげなくずらして彼女の名札を見た。「あやか」はおそらく源氏名だが、この指を持つ存在を特定できるならそれでいいと思った。

 指名はやっていないんですと言う受付の女に、疚しいことは一つも考えていない、マッサージ屋を何度も変えたが、激務の体をほぐしてくれるのは彼女しかいないと話を盛って訴えた。オーナーに内緒で君とあやかに迷惑料と指名料を渡すと言うと女は目の色を変えた。

 しかしそんなネゴシエーションの甲斐なく、あやかに施術してもらったのは冬の間の数か月だけだった。店の入っているテナントビルで当局の一斉摘発があり、あっけなく店は閉まった。あやかは営業を兼ねてTwitterをやっていたが、そのアカウントも跡形なく消えた。ただ、私はあやかのフォロワーからあやか自身の友人らしき人物をいち早く特定してい、そこからあやかの個人的なアカウントと、インスタのアカウントを把握済だったので慌てなかった。

 「私、本当は別の店で働きたかったんだあ」と漏らしていた通り、彼女は今度は普通のマッサージ店で働き始めた。次の店も私の会社の近くだったから、不自然ではない形で再会を果たせたと思う。もっとも、私が最初に訪れた時、あやかの目は少しぎょっとしていたけれど。

 信頼を育てるには継続しかない。私が店でのマッサージの施術以外の個人的な何事かを要求してこないことがはっきりしてくると、あやかは私を安全な太客と認識してくれたらしい。店長からの度重なる交際要求を苦にしてその店を辞めた後、三つ目(女店長からの嫌がらせで退店)、四つ目の店はあやかから私に教えてくれた。Twitter上でも正式につながることができた。そして五つ目、今度は独立して店をやることになったとあやかは教えてくれた。

「ひつじ治療院っていう名前にしようと思うの」

「なんでひつじなの?」

 あやかはどちらかというとサーバルキャットとか豹のような感じだから意外だったのだ。

「そうねえ……ここだけは、毛皮を脱いでリラックスして欲しいからかな? あと、私、案外ほわほわなの好きだし」

 来週には新しい店の名刺を渡すよとあやかは言っていたが、次に私がその店に行った時、あやかはいなくなっていた。Twitterはずっと更新がなかったが、開店準備で忙しいのだと信じて疑わなかった。そのアカウントもまもなく消えた。Instagramも同様だった。


 それ以来、私は「ひつじ治療院」とあやかをずっと探している。


 調べてみると、この県だけでもひつじと名の付くマッサージ店は三百もあった。あやかは、私に特定されないように、ほんとうは「ねこ治療院」なのに、わざとひつじだなんて言ったんだろうか。まさか。本当は私を嫌っていた可能性はあったが、あやかはそこまで周到な嘘を吐くタイプではない。マッサージ界では、ひつじの持つイメージが好まれるのだろう。あやかがもし別の都道府県に行ってしまっていたらお手上げであるという可能性に怯えながら、私はあやか探しを開始した。三百は多いように思えるが、土日に一軒ずつ調べていくと三年で調べ終える軒数だ。実際には日に何軒も回れる可能性があるし、ホームページやSNSで店主の写真などを確認すれば候補から弾けるだろう。そのように弾いた百軒を除いた二百件が私の調査対象だった。

 これと同時並行で、TwitterやInstagramに彼女の痕跡がないか探ることも私は怠らなかった。彼女の友人と思しきアカウントのやりとりは定期的に確認した。またマッサージを仕事としていると公言しているアカウントは見つけ次第フォローした。一つ一つのアカウントの発言を遡ってチェックし、この人が男性か女性か、どの地域に住んでいるか推測し、あやか候補を厳選していった。仕事でシステム開発などを行っているから、インターネットに転がっているデータを分析するのは得意だった。

 そんな風に手も、足も尽くして調べても、あやかの経営するひつじと名の付くマッサージ店は見付からずにいる。まだ訪れたことのないマッサージ店のリストも残り少なくなってきて、この間行った店のように、もう閉店してしまっている店も増えた。

 私はあやかのマッサージのどこが良かったのだろう。彼女が私に触れたのはもう二年も前だ。この間入ったマッサージ屋の中にも、優れた技術を持った人はいたはずだ。私が効果を感じられなかったのは、あやかに対する裏切り、あるいは浮気であると私が勝手に感じていたからに過ぎない。しかし裏切りという意味では、あやかの方が先に裏切ったのだ。他の客にストーキングされていたとか、なにかのっぴきならない他の事情があるにせよ。そして私があやかの良さがわからなくなっている今となっては、ひつじ探し、あやか探しの意味はなくなりつつある。

 私があやかのことを個人的に好きだったかどうかについては、考えないようにしている。好きだったとも言えるし、そんなことはなかったとも言える、意味がない問いだからだ。

 それでも、私はあやかの口癖をつぶやいているアカウントにあやかを見る。二十代の女の子は、こういう言葉遣いをするものかもしれないのに。これは私達がつながっていた当時誰もが使っていた、ネットスラングに過ぎないかもしれないのに。あやかが今もどこかにいることが分かれば、もう会おうとはしないのに、不在を証明するのは悪魔の証明だから、私はリストに全部赤線が引かれるまで、それから逃れられない。私はせいぜい、調査範囲を「ねこ」にまで広げないように自分を律することしかできない。

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