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文藝賞に出したよ日記

 タイトルの通り、第61回文藝賞に原稿を出したよ!

 今回の作品は11月半ばくらいから構想しはじめて、1月末に一度原稿が出来上がったものを、大改稿して3月末にようやく出来上がったものになる。
 1~3月が繁忙期なのは分かり切っていたので、今年は1月の仕事を減らして、遅くても2月中には決着を付けるというつもりで臨んだのだけれど、1月末に人に読んでもらって「これじゃあか~ん」とテーマ変更をしたので、まあ難航しましたね。ただその分、テーマははっきりしたと思うし、作品の作り込みはできたと思う。

 本当は、あと30枚くらいは欲しかった。近年、受賞作はすぐに単行本にして売る傾向にあるので、一つの小説で本が出せるぐらいの分量じゃないと受賞しにくいんじゃないかという打算である。エピソードを足そうと思えば足せたし、作品の深みも増したとは思うけれど、今回の構成で出来ることは全てやったと思うから、悔いはないかな。

 自分のテーマ設定能力と、それを説得力のあるお話にする能力がまだまだだというのは大前提として、プロットをもっとしっかりめに作っていればこのような大改稿は不要だっただろうか?

 そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 最初はこれで行けると思って形にしたのに、出来上がって眺めてみたら、全然言いたい事を網羅してなかったみたいなことは、プロットを書いてても起こるという体感がある。
 形になってみてはじめて、「えー、私こういうことが言いたいんだったっけ?」と違和感に気付いたのが今回の作品だった。
 正直に言うと、書き上げる前から「このテーマはうまく調理できない」という予感はあった。けれども、素材をまな板の上に置いたまま眺めていたのでは、どう調理するか永遠に分からないままになってしまう。手を動かさないとこちらのメンタルがおかしくなるので、取り敢えず書けるところから書いた方がいいという方法論もあるし。

 その辺りは今後の課題だと思う。さっさと書けるようになったら、初稿を書いて大改稿してもいいのかもしれない。しかし、一度書いた文章を消すのってそれなりに勇気が要るので、大改稿はゼロから書くよりも体力が要る。大改稿力を付けるよりは、初めからそこまで改稿が要らないように作り込む方向で頑張った方がいい気がする。とりあえず今回は、自分の書いた文章をあっさり捨てる力や大改稿力がついたと思っておこうかな。

 ところで、この作品を書いている時、ミラン・クンデラの短編集を読んでいた。その前に読んでいた心理学の本で、「偽りのヒッチハイク」という作品がとてもいいと紹介されていたからだった。

 「偽りのヒッチハイク」は、付き合いたてに近いある男女が、やっと取れた休暇を使って旅行に行く話だ。あるガソリンスタンドに寄った時、女は戯れから、ガソリン補給と休憩をしている男の車に乗せてもらうあばずれヒッチハイカーを、男はそういう商売女を簡単に車に乗せ、やることだけやって捨てるような粗野で大胆な男を演じることになる。最初は面白がって始めたこのゲームによって、本来の行き先とは別の場所に車を走らせることになり、心理面でも二人は疑心暗鬼に苛まれていくようになる。

「他の女と違って貞淑ですれていないところが良かったのに、こんな演技ができるなんて。もしかしてかの女は、本当はこういうあばずれ女なのではないか?」

……というわけである。

 今回の小説でも、そういうことを少し感じた。私が書いているこの主人公は、本当に私とは全然違う人間なんだろうか。こういう行動を思いつくなんて、こういう行動をしたときの気持ちがはっきり思い浮かぶなんて、私は主人公の性質があるのでは?
 説得力を高めるために、自分の経験もところどころ織り交ぜたので、余計そのように感じたし、実生活でも、主人公の思考が私に入り込んでくるような感覚があった。実際、主人公の性質があったから、小説のテーマにしようとしたのでは? それはそう。
 小説家はこんな風に、小説に書いたことを擬似的に、しかしほとんど実際体験したかのように、体験する生き物なのかもしれない。
 もちろん、本当に自分の体で主人公のような体験をしたら、もっと別の感慨や内省が生まれる可能性があるとは思う。それに、疑似体験だと思うほど作品に入り込めたことが、作品の出来と関連するかどうかよく分からないけれど。

 よく、「作家は経験したことしか書けないわけではない」という議論で、「もしそうなら、推理小説家は何百人も人を殺さなければならないじゃないか」という反論がある。
 けれど、小説で人を殺している推理小説家は、現実の人は殺してなくても、やっぱり小説の中で殺人を「経験」してるのではないだろうか。倫理に悖るので大っぴらには言えないだけで。
 憎い相手と相対して凶器をかざすときの、脳が過集中状態に入って真っ白になる感じや、人の脇腹にナイフを刺しこむ時に、ナイフから伝ってくる内臓の息遣いや骨の抵抗感や重たさも、噴き出る熱い血を浴びながら、不謹慎にも「生きていることの美しさ」について思いを馳せてしまったことなんかも、実際の記憶にあるに違いない。

 いや、私は! 殺しのほうはヤらないんで!!

 
 あと、今回はありとあらゆる手段を使って、作品のレベルアップを図ったなと思う。オンライン講座は強制的に〆切を作る上で大変有効だったので、4月は流石に何も出せないのでお休みにしたのだけれど、5月からはまた参加するつもりだ。
 また、リアル友人含めて様々な人に作品を読んでもらったが、色々な視点からのアドバイスも参考になったな。読んでもらいたいと思う人に読んでもらうのがやっぱりいいなと思う。
 いつもお世話になっている人には常々うっすら申し訳なさがつきまとっていたけど、これを作っている途中でこれまでの作品が賞に引っかかった報告が来たので、ゴミばかり読ませてるわけでもなかったと思えたのはとても良かったなと思う。
 読んでもらうことが当たり前だと思って無いし、ふっと我に返って「もう付き合えない」と思われてもそれはそれで仕方ないと思ってはいるけど、因数分解できないところで頼りにしているし、受賞作や受賞作の掲載号のどこかにあなたのことを刻む予定だし、なんなら受賞式に招待するつもりでいるぞ。

 自分が創作する人の作品を読む側をやってみたのも学びが多かった。「このやろう、おれの素晴らしい公募作品を読みやがれ」と言う方がいらっしゃったら、もちろん本人への感想以外は口外しない前提で読ませていただくので、手を挙げていただければ幸いである。

 さて、これからは文學界と群像のネタ固めとプロットづくりに勤しむことにする。noteはこれまでと同様、毎週一本日記を書くスタイルを継続すると思う。これからもよろしく。

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