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リア充とは 20220930日記

 幼稚園には課外活動があって、放課後に英語だの体操だのの外部講師が入って、希望者が月謝を払って参加する。そのうちの一つに我が子を通わせていて、そのお迎えのひとときは、バス通園させている私にとって、数少ない他の保護者との交流の場になっている。

 先日、PTA活動を通じてLINEは知っているし、他の人も交えて若干名でおでかけしたこともある程度の間柄の人(ようは、ママ友とはっきり言い難い関係の人)と、もう少し仲の良い人とが喋っている間にふっと入った。前者の人は、子供をスポーツクラブのダンス教室に通わせているらしいのだけれど、自分もそこでダンスを習いはじめて、今度披露の場に出るそうだ。その彼女を評して、後者の人が「リア充だねー」と感心していた。前者の人は「忙しすぎて、今日何かはしなきゃいけないと思うけど、何をする日だったか分からなくなる」みたいなことを言っていた。ちなみに彼女は、誰もがまあまあお洒落だねと思うような、ある外食店で働き始めて数か月がたつ。

 私は彼女らの話に相槌を打ちつつおもしろおかしくツッコミを入れつつ、「私だってリア充なのになー」と思っていた。でも、世間的には彼女みたいなのがリア充と言うんだろう。外で人と関わる仕事をし、人目に触れることで垢抜け、自分の稼いだ金を一部使って体を動かす趣味に打ち込み、仲間と力を合わせて練習し、発表する。なんと全きリア充であろうか。

 対して、私がいう「リア充」は、今週手に入れたビカクシダに霧吹きで水を与え、その優美な姿をニマニマと眺めたり、庭を巡って発芽したれんげやビーツの幼葉を愛でたりすることである。あるいは他のビカクシダマニアの投稿を眺めてうっとりすることだ。

 たまには人と会うし、仕事で忙しくすることもあるが、仕事は後工程の人がいるものの自分の作業は家で一人で完結する閉じた内容のものだ。私がもし前述の場で自分のリア充ぶりをアピールしたなら、「それもある意味めっちゃリア充じゃん!」というようなことを言われるだろう。ビカクシダに限らず、たとえば読書とか、日がな一日ゲームをやるとかでもいいのだけれど、(オンラインで誰かと交流するにせよ)家で、自分一人で完結しやすいようなものは、世間的には「お前の中ではリア充なんだろうな、お前の中ではな」みたいな扱いになりがちなのではと思ったのである。リア充の定義拡充を要求したい。いや、別に世間的に理解されなくたってよくて、「ある意味」なリア充でいいんだけれど。

 しかし、趣味だけを目的とするSNSは気楽でいい。すごいですね、綺麗ですね、という誉めしか発生しないのである。もちろん、どっぷり浸かると金に糸目を付けず収集するフォロワーを妬ましく思ったり、栽培方法や植物に対するスタンスの違いから気まずくなったり、植物の売買を通じてトラブルが起こったりすることもあるのかもしれないけれど。


 おててえほんという遊びがある。もともとはNHKの子供番組で紹介されていたもので、要は即興でお話をそらで作るものだ。私はこれを夜、お布団の中でやらせることがある。本当は絵本を読んであげたいけれど、風呂に入りたくないとごろごろしたり、髪の毛を乾かすのに逃げ回られたりして時間が押したときに、自分達で絵本を作ってもらおうという算段である。もっと幼いころは唐突な設定とぶつ切れの終わり方をしていたものだけれど、最近は起承転結の「転」はないものの理路整然とした話を言えるようになった。また「こんな言葉を知っていたのか」と思うことも増えた。ただ、面白みは少し減った気がする。面白みといっても、親が子に対して期待する荒唐無稽さであって、物語としての面白さではない。

 最後にわたしにもへんてこな話を作ってとせびられたので、即興で話を作った。

 むかしむかしあるところにみいちゃんときいちゃんという姉妹がいました。
 ふたりは森にすんでいました。お父さんとお母さんはいません。もっと森の奥に住んでいる、おばあちゃんがたまにめんどうを見に来てくれて、ごはんを作ったり、お話を読んでくれたりします。ふたりは食べられる木の実はどれか、どくのあるきのこはどれかなど、森のことをよく知っているから、ふたりだけでもだいたい平気でした。
 ある日、きいちゃんは森にたべものを取りに行きました。ふだんはそんなことないのに、道にまよってしまいました。しかたなく、きいちゃんがうちの方向だとおもう方にどんどん進んでいくと、おおきなきのこの森があらわれました。まるで大人のもつかさくらいの高さなのです。そのきのこのかさは真っ赤でした。きいちゃんは赤いかさのきのこはどくがあると知っていましたから、そのきのこは取りませんでした。だいいち、じくがきいちゃんの体くらいありましたから、むりでした。

 さて、いえでまっているみいちゃんは、きいちゃんがまだかえってこないことでしんぱいしていました。みいちゃんが口ぶえをふくと、青い鳥がやってきました。この鳥は、みいちゃんときいちゃんのお友だちの鳥なのです。みいちゃんは、青い鳥にきいちゃんのかみかざりをむすびつけました。「おいき」とみいちゃんがいうと、青い鳥は森の中にとびさっていきました。

 こんなきのこ、いままで見たことがないのだから、はんたいの道にいってみよう。きいちゃんは思っていた道とははんたいのほうに進みはじめました。すると、こんどはとても小さなどんぐりがたくさん落ちているところにでました。きいちゃんの小指のさきよりもちいさいのです。そのどんぐりをたべようとあつまっているりすたちも、いままで見たことのないほど小さいのでした。

「もしかして、わたしのからだが大きくなっているのかしら」

 きゅうにきいちゃんはこわくなりました。もううちに帰れないかもしれないとおもったからです。きいちゃんが泣いていると、青い鳥がぴゅうっとやってきました。青い鳥は首にきいちゃんのかみかざりと、みいちゃんの作ったクッキーをつけていました。そのクッキーをほおばると、きいちゃんは元気が出て、青い鳥といっしょに家にかえることができました。家でまっていたみいちゃんはよろこんで、ふたりと一わでごちそうを食べてよろこびました。おしまい。


 話し終えたあと、小学生の方の子が「きのこの森のときは、きいちゃんはからだが小さくなっていたのかもしれない」と感想をいっていた。私はきわめて感覚的に、即興的に話を作っていたから、そんな意図など入れる余裕はなかったのだけれど、想像力が身に付いているんだなあと我が子ながら感心してしまった。


 毎年手帳はRollbahnのLサイズと決めて数年経つ。毎年この時期に「は、来年の手帳!」と思って物色するも、欲しいなと思った柄のいくつかは売れてしまっている。なぜなのかと思っていたが、この手帳は10月はじまりで、それに合わせてもっと前に購入している層がいるかららしいということに、今年初めて気付いた(おせーよ)。でも、今年はなんとか一番いいと思った柄をゲットできそうである。二番目の柄も三番目の柄も素敵だったのだけれど、今は一番いいと思ったものを得る経験をすべき、という気持ち。冒頭で話したビカクシダも、植物店で思いかけず出会った目当てでない種に惹かれつつも、当初の目的の種を購入したことが、なにか自分の軸を定めたような感覚が得られたので。そういう小さい矢を射ることが、多分将来の私を作る。

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