景気のいい日記 20240904

 私はここnoteと、インスタと、Xにアカウントがあって(ついでに言うとmixiにも放置されたアカウントが残ってはいる、本名でやってたFBは消しました)、そのどれも名前が違うし書いていることも若干違う。
 しかも、そのどれもがデビュー後に使う筆名とまったく紐づいていない。

 本来なら、統一した筆名を作ってその名前を広めた方がいいのかもしれないけれど、わざとそうしているのは、自分を隠したい欲求があるからだし、別々の名前でもこれらに共通した中の人がいることは、分かる人にだけ分かればいいと思うからだ。
 私の方から気付いて欲しいなと思う人もいて、その人がXの私を紅茶だと気付いてくれると小さくガッツポーズする。そういう時、DMなんて野暮なものは送らない。そう、「紅茶でござい」ってほうぼうで言うのが野暮だと思うのだろう。けれど、そういうこそこそコミュニケーションは、私のことを長く知っている人にもあまり真意が伝わらないので、最近は超頑張って自分のことを伝えるようにしている。
 (ただ、最近の新人賞受賞者には、最初は匿名性の高い名前でSNSをやっていて、デビュー後に筆名に変える人もまあまあいるので、私の振る舞いはそんなに奇矯なものでもないのだろうな、と思ってはいる)

 落語の小噺にもならぬ雑談を挟まないとなんとなく本題に行けない。そういえば夏休み中、子供の観覧歓迎の落語会に行ってきたのだけど、べらぼうに面白くて、噺家さんが登壇してからずっと痛む腹を押さえてヒーヒー笑っていた。小四の娘にはヒットしたが、小二の娘にはまだピンと来ていなくて、笑いとは、社会の文脈を理解しないと得られないのだと思い知らされた。


 隔週水曜日が小説講座の日である。以前の講座は月一回で、講座の二週間前に上限五十枚(うろおぼえ)で原稿を出して公表してもらったが、今の講座は開催日当日に上限約三十二枚で次回の原稿を出すことになっている。最初はそのリズムで書けるか不安だったが、慣れてきたら講座を基に計画が立てられるようになった。

 昨日は、先に小説家志望サークルの面々にも読んでもらっていたプロットを講評していただく予定だった。サークルメンバーに言われたことを受けて改善案を考えていたけれど、どうまとめていったらいいか分からなかった。そんなわけで、昨日提出した原稿は、このプロットを書いた後にするっと生まれた別の作品を出していた。もう次作のことで頭が一杯になっていたし、これまで講座でプロットを出して講評してもらっている参加者はいなかったので、今日は力を抜いていくか~くらいに思っていた。
 ただ、先生は元バリバリの編集者(一般文芸、純文両方の編集経験があり、文芸誌の編集長もしていた)なので、おそらく担当作家のプロットを読んでコメントすることも日常的にしていたはずだ。先生のその能力を使わせて欲しいとは思っていた。
 
 Xでも感極まって呟いてしまったのだけど、講座では私がとりあえず時系列で書いたあらすじに対して、先生が時系列崩しのアイデアを考えてくださったり、原稿の末尾に私がくそだらだら書いた質問文について、「そういうことに悩むよりは、むしろそれを作品の要素にこういう風に盛り込めばいいと思う」と提案してくださったりして、「はわわ~!!!」となった。今朝もはわわ~が続いている。実はまだ先生の講評付き原稿は戻ってきてないのだけど(PDFでメール送付される)、つるりと脱皮した気分だ。
 正直、昨日出したものは収拾がつかないと諦めていて、「これはもうちょっと長めに温めておいて、新人賞を獲って、『賞を獲る』じゃなくて、『自分の書きたいものを追求する』にシフトできたら書こう」と思っていた。そうなるとお話のストックが今かかっているものだけになる。年度内に二作書くのは半ば諦めていたから嬉しい誤算で、まじ「はわわ」なのである。
 とはいえ、早め早めに書いていかないと間に合わないスケジュールではある。頑張りたい。

 最近、「この作品で賞を獲って、○○(筆名)と言えばこの作品だと思われてもいいものを作る」ことを意識している。
 私は昨年度まではそういう風に思ってこなかった。その時思い付いたそれっぽい話をうーんうーん唸って書いていただけで、最終候補に残りましたと連絡が来ても、「えっ、あの作品が私の代名詞になるかもしれないの」と戸惑ってしまうものもあったと思う。内容がそうなのか、テーマがそうなのか、文章の質がそうなのかは分からないけど、あんまり誇れないなと思ったのだ。
 基準が曖昧なので気の持ちようなのかもしれないけれど、前回でやっと「これで受賞しても大丈夫」と思えるのが出来たと思うので、その感じを維持していきたいなと思う。そういうありようだと、やっぱり沢山は書けないとは思うけど、五大文学賞+太宰+地方(北日本、林芙美子……)への応募をコンプリートしたって、賞を獲れなければあまり意味がないと私は思うし。

 最近「という」「のような」撲滅運動をしている。これは講座で口酸っぱく言われていることだが、市販の小説の書き方本などで見かけた人もいるだろう。
 最初は自分が「という」をかなり使っている(「のような」は意識して減らせてはいたらしい)ことに気付いて、「という」なしでどうやって書けばいいのかと悩んだけれど、単に取るだけでも十分通じる場合が多いことに気付いた。「という」と付けることによって、主人公の言動や場面の描写が雰囲気的になってしまうのだ。「市役所の方から来ました」みたいなね。「という」を外すと、主人公に責任、あるいは覚悟が生まれるので、変にふにゃふにゃしたキャラクターにならなくなるのである。
 最初の小噺で私は「最近は超頑張って自分のことを伝えるようにしている」と書いたが、そんな訳で「という」「のような」撲滅運動は私自身にも及んでいる。私は責任をもって私でいようと思うし、伝えることで何か明らかになることに怯えず、ちゃんと受け止めるようにしたい。ネット上の人格は分岐させたままでもね。

 今週はそんな感じで。


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