見出し画像

【大人のファンタジー小説】マッチ売りの女の子(第六話)

Part6 森の夜のお話

 梨々子は間髪をおかずマッチ箱から最後の一本を取り出してレンガの壁に擦り付けました。雪で湿ったレンガではなかなかマッチに火がつかなかったのですが、形相を変えて何度も壁を擦り、ようやく火を灯しました。
 すると今度は再び琢磨のスープラに乗り、夜の高速道路を直走っている光景に出会いました。 
 右手に見える成田国際空港は、離着陸する飛行機のライトが点滅し、滑走路の誘導灯が光を放ち、まるでよくできたジオラマのように見えました。やがてスープラは、空港を通り越し、国道に降りました。しばらく走ると、舗装された国道の道は、うっそうとした森のなかを進む凸凹の砂利道へと変わりました。車の後部座席では、無造作に置いてあるプラダやミュミュウ、エルメスやグッチ、ヴィトンの紙袋がガサゴソと音を立てながら上下左右に揺れています。沿道には街灯もなく、車のヘッドライトだけが行く道のわずかばかり先を照らしています。
「もし俺が殺人鬼だったらどうする? 無理心中の相手を探して梨々子の前に現れのかもしれないよ」
「そんなところかなと思っていたわ。茉莉花さんのことは道連れにはできなかったというわけね」梨々子は、うすら笑いを浮かべながらそう答えました。外があまりにも暗くて鏡のようになったフロントガラスに年齢相応にフェイスラインが弛んで法令線が目立つ自分の姿が映っています。
「って鵜呑みにするなよ。明日の飛行機だから、今夜は成田のハズレで一泊するんだよ」と言ってからアクセルを踏み込みました。
「目的地に到着しました案内を終了します」というカーナビのアナウンスが流れてから、それでもしばらく進むと、「NARITAグランピング・フォレスト」という看板が掲げられているゲートが目に入りました。車に乗ったままゲートをくぐると、そこには黒のフロックコートを着て赤い蝶ネクタイをした男性と、黒いベルベットのワンピースを着て、同じベルベット素材でできたチュールのついたトークハットを頭につけた女の人が立っていました。そして一時停車して、ウインドウを開けた琢磨に、「お待ちしておりました」と丁寧にお辞儀をして挨拶をしてくれました。
 ゲート脇の駐車スペースのようなところに車を停め、琢磨と梨々子は車を降りました。そして、黒服の二人がもつランタンの光を頼りに森の小径を進むと、奥にパオ型の大型テントが設営されているのが見えました。テントの中に入ると、中近東風の幾何学模様の絨毯が敷き詰められた中に、天蓋付きのベッドや真っ赤な革製のソファが置かれていました。壁には月や星を象ったオブジェ、鳥籠や仮面、扇子などボヘミアンな小物が飾られていて、まるで世界中を旅しているサーカス団の団長の部屋のようです。
「何かあればいつでもお呼び出しください」という言葉を残して黒服の二人が消えた後、今度はどこからともなくシミひとつない真っ白なクックコートを着て、長いコック帽をかぶったシェフがやってきました。琢磨と梨々子にテラスのガーデンテーブルに座るように促すと、テラスに備え付けてあったバーベキューグリルで海の幸や山の幸、見たこともないような珍しいきのこなどを調理して、テーブルまでサーヴしてくれます。テラスの焚き火台では煌々と火が燃え、冬だというのに少しも寒くありません。
 コックが引き上げたあと、焚き火のそばで食後酒の甘口ワインを飲みながらふと空を見上げると、数えきれないほどの星がキラキラと輝いていました。南の空には、ぎょしゃ座の「カペラ」、ふたご座の「ポルックス」、こいぬ座の「プロキオン」、おおいぬ座の「シリウス」、オリオン座の「リゲル」、おうし座の「アルデバラン」からなる冬のダイヤモンドが瞬いています。北の空で煌めくのはカシオペア座と北極星。「ああ、きれい」と梨々子が言いかけたそのとき、一筋の光が東から西の方向にスーッと流れて消えました。
「流れ星だ」と琢磨。
「星が流れて消えたとき、どこかで誰かが」梨々子がそう言うと、「あったね、そんな物語」と琢磨が遮って、グラスに残っていたワインを飲み干すと、「きょうは振り回されて疲れたろう。先にシャワーを浴びてもう寝ろよ」と梨々子の耳元で囁きました。すると梨々子は深い深いため息をついて、
「あのね、ここまで付いてきてなんなんだけど、あたしもうできないよ、エッチ」独り言を装うかのようにそう呟きました。そして
「こんなことなら、20代のあのとき1度でも若林さんとやっておけばよかった」と星空を眺めたまま続けました。琢磨は空のグラスを持ったまま梨々子をポカンと凝視しています。そんな琢磨を見ることもなく梨々子は夜空を眺めながらそのまま続けました。
「私もうずっとレスだからさ、できなくなっていると思う。不妊治療のタイミング療法で性行為を医者にコントロールされたのが旦那は嫌だったらしくて、人工授精に移行してからはずっとレスだもん。たとえできたとしても全然よくないはずよ。本当にごめんなさい」
 琢磨は多少おどけた表情を作りながら
「大丈夫、俺ももうこんな歳なんだから」と言いました。
「それに私、とっくに閉経しているんだ。こうなってくると、もう女じゃないよね」
「あのさ、だからやっぱり梨々子はモテないんだよ。言わないぜ普通そういうこと。茉莉花だったら絶対言わないもんな」、琢磨はそう言うと梨々子の横顔を見つめていた瞳を星空に移動させながら、「それに、そんなこと心配しなくていいよ。やるとかやらないとか、こんなおっさんとおばさんになっているんだから、そんなことどうでもいい話だよ。大丈夫だから。梨々子は何も心配しなくていいから。逃避行の相方として、俺の隣にいてくれればいいんだよ」と言いました。

  焚き火台の炎を消してから、二人はテントの中へ戻って、ルームサービスで持ってきてもらった大粒のいちごと、シャンパンのモエ・エ・シャンドン・ブリュット・アンぺリアルを味わいました。
 その夜、梨々子は脳が溶けてしまうような快感を幾度となく味わいました。それはこれまで感じたことのない陶酔するような恍惚感でした。この快楽をコロちゃんは数え切れないほど独占的に味わい、さらには20代、30代のコロちゃんならばこれと同じくらいの官能的な刺激を琢磨にも与えたのだと思うと、なんともやり切れない気持ちにもなったりしました。それでも今現在は自分が独占しているのだし、この先も好きなだけこの身体の芯が痺れるような感覚を享受することができるという事実が梨々子を満ち足りた気分にさせました。

 ベッドの天蓋に取り付けてあるレースのカーテン越しに、灯を消したテントのなかで常夜灯用代わりのランタンの炎が揺れているのが梨々子には見えていました。隣では琢磨が安らかな寝息たてています。下腹部に甘美な余韻を感じながら眠りに落ちかけたとき、遠くの方でサイレンの音が聞こえて、梨々子はなんとはなしに胸騒ぎがしました。
「そうだ、寝る前にコンタクトレンズをはずさなきゃ」
 ワンデーなのに換えのコンタクトレンズを持ってきていない。バンコクでは処方箋なしでジョンソン・エンド・ジョンソンのアケビューは買えるのだろうか。化粧品や乳液などのスキンケア用品、ファンデーションやアイシャドーなどのメイクアップ化粧品の類を成田の免税店で揃えなければならない。いや、なによりパスポートがないではないか。「どうしよう」と頭を抱えたそのとき、ランタンの炎が左右に1回大きく揺らいでからふっと消えました。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?