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朝日ヶ丘のバイト天国

1978年にタイトーが発売した「スペースインベーダー」は、世界的なヒットとなった伝説的なシューティングゲームだ。当時は大人も子供もこぞって熱中した社会現象と云えるほどヒットしたゲームであり、テーブルタイプの業務用だったことから設置しているゲームセンターや喫茶店は大賑わいだった。それだけになかなか手に入れることのできないゲームだった。そんなゲームをなんと全席に配置した喫茶店が芦屋の朝日ヶ丘にあった。その名はラ・ブランシェだ。

「なぁなぁ、芦屋の朝日ヶ丘にめっちゃええバイトがあるけど、お前もやらへんか?」と地元の連れが誘ってきた。「どういうこと?」と色々説明をしてくれるのだが結局はインベーダーゲームがあるということだったが、小生はテレビゲームは苦手であまり乗り気にはなれなかった。ところが渋々ながら試しにその喫茶店へ出かけてみると「何じゃこりゃ!」的な店で、興味がみるみる膨らんで速攻でバイトすることになる。

まず驚かされたのはその外観。それは喫茶店というレベルではなく、百坪はありそうなレンガ造りの二階建ての豪邸であり、小さな看板はあるものの普通なら二の足踏みそうな佇まいだった。分厚い木製の扉を開けるとそこは鏡のある玄関の間。さらに扉を開けると花柄の絨毯が敷き詰められたフロアは、北新地の高級クラブさながらのムードである。三段ほど階段を下りるとまた別の部屋があり、さらに奥にも別の部屋が広がっていた。

「いらっしゃいませー。」とオシャレな7〜8名の女子大生が迎え入れてくれ、空いてる席へと案内される。室内空間はロココ調の豪華仕様。インテリアの調度品なども聞くところでは半端ない値段らしい。カップ&ソーサはセットで数万円らしく冗談でも手荒には扱えない。ところがテーブルはすべてインベーダーゲームなのである。そのアンバランスさは何ともいえない独特のムードだった。

さらに驚かされたのがメニューの値段だ。当時の喫茶店の珈琲は300円前後なのだがここはビックリの800円、サンドウィッチやカレーが1200円とぶっちぎりに高かったのである。まさに一流ホテル並みの値段だ。それをなんと学生のバイトだけで調理とサービスを回していたのだから驚きである。だから必然的に凝った料理はできない。例えばカレーはというと業務用のサンタ缶カレー。緑のスタンダード缶と肉たっぷりのゴールド缶を混ぜ合わせ、バイトたちは面白がってトマトジュースや珈琲用のクリームなんかも入れてコクを出していた。サンドウィッチは見よう見まねでリッチな感じにしていたが、まあ食器がゴージャスだったのでごまかせていたかも。学生レベルではそれなりに美味しくできたことを記憶している。

そして極めつけはトイレの広さ。十畳ぐらいはあったと思うが、あまりの広さに落ち着いて用を足す感じではなかった。しかも壁一面が大きな鏡で埋められていたことから「あのトイレは怪しい。もしかして別の部屋から見えているのでは」との噂が立つほどだった。実際にバイトしているときに鏡の裏のスペースに行ってみたが、どうもそのようなカラクリはなさそうだった。ちなみにこれはネット情報だが、普通の鏡は指先を近づけると指先が少し離れているが、怪しい鏡は指先がくっつくらしい。ご参考までに。

時代はまさに第一次女子大生ブームのとき。神戸のニュートラ、横浜のハマトラが流行っていて、サザンの「いとしのエリー」が大ヒットし、学生たちはこの世の春を独り占めするかのように浮かれていた。FILAやエレッセなんかのテニスブランドも流行り掛けていたかな。そんな時代を背景に女子20名以上のバイトが集う喫茶店だけに、青春群像を絵に描いたようなやりとりが日々行われていたということだ。

バイト女子の構成は地元の子もいたが、どちらかというと地方からのお嬢様の遊び場になっていた記憶が濃い。“旅の恥はかきすて”ということか。逆に地元のお嬢様は噂になると困るのでやや控えめだった。小生の連れも岡山から来た年上のお嬢様にすっかり嵌まってしまい幽閉状態の日々を過ごしていた。そこでもやっぱりクルマは強力な武器になり、男子のマイカーチームはあの手この手できっちり遊んでいた。小生はというと相変わらずの原チャ通勤だけに誘う機会もなく、仲間とグループで出かけるときに限りそれなりに青春できた感じもある。

さて、ここで社会人なら誰もが疑問に感じることを説明しておこう。いくらメニュー金額が高いからといって20〜30名以上のバイトを雇い経営は成り立つのかということだが、それが20台以上あるインベーダーゲームのおかげでしっかりと儲かっていたのである。

連日のように通い詰める常連客は、まさに「インベーダーゲーム命」という感じであり、数千円単位で両替をしてゲームにつぎ込んでいた。その中に何人かは品の良い地元の小・中学生がいたのも芦屋らしい。万札を握りしめて必殺技の名古屋打ちに挑んでいたようだ。バイトたちはゲーム機のコインボックスが満杯になると大きな業務用のコーヒー豆の缶に流し込むのだが、それが店に3缶ぐらいはあったように思う。もちろんそれは毎日のことだ。ちょっとしたパチンコ屋の感覚であり、バイト代ぐらいは余裕で間に合っていたはずだ。恐るべしインベーダーゲーム。

絶好調のラ・ブランシェであったが、経営者はめったにお店には顔を出さず、バイトたちは好き放題の日々。二階の広々とした支度部屋は倉庫兼バイトたちのプライベート空間。好きなものを食べては適当に休憩し、新しいバイトの面接さえ先輩のバイトがやっていたほどで、結局は自分たちの好みの女子大生を採用していた。また誰がチェックしていたかは分からないが、タイムカードの打刻も適当なのでやりたい放題な感じがした。あるヤンキー風の女子大生は店に入って打刻してから自動車教習所に行き、戻ってから暫くバイトして帰っていたほど。辛うじて崩壊しない程度のモラルだったが、それでも経営者はお構いなしだった。

そんな一発屋的なバブル喫茶店だったが、ある日突然にその若い経営者は亡くなってしまう。詳しいことは知らされなかったが、バイトの間では謎の死に憶測が飛び交い、なんとも後味の悪い終焉だったことを思い出す。その後は新しい経営者が建物ごと買い取り、芦屋にふさわしい感じの高級ラウンジとして数年間営業していた。小生も社会人になってから何度か客として行ってみたが、雰囲気はすっかり変わって夜遊び好きなおっさんや企業接待のお客で賑わっていた。そういえばホテル竹園に泊まっていたジャイアンツの選手を見かけることもあったかな。それから40数年が経過し、いまはもう跡形もない。




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