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すぐそこにある芦屋という別世界

話は昭和30年代から40年代まで遡る。小生はごく普通の家庭に生まれ育った三兄妹の次男である。父親は大手重工業で列車を作っており、母親は銀行勤務の経験を持つ。祖父から受け継いだ家は小さな庭のある木造二階建て、かなり年季の入った感じであり、天窓やへっついさん、井戸もあったし便所は外、玄関には松の木もあった。サザエさんの家ほど広くはないが、まあ昭和のそれなりの家である。

当時は子供が家事を手伝うことはごく普通のことであり、夕方になると自分たちで薪を用意して風呂を焚いていた。薪の焚き方に関しては自分たちで工夫しながらのことであり、誰かに教えてもらった記憶はほぼない。薪は燃料屋で買うことが普通だが、どこかで拾ってくることもあったように記憶している。だから中学生になったころ台所にガスの瞬間湯沸かし器が設置されたときの感動といったらなかった。

冷蔵庫はというと木の箱で上段と下段の二室になっていて上段に氷を入れて冷やすという代物、夏になると氷屋のおじさんが自転車にリヤカーを引いて売りに来ていた。だから魚や肉が腐りやすい夏にしか利用することはなかった。今で云うところのクーラーボックスであり、そうして暮らしていたことが今となっては懐かしい。

小学校高学年になると父親のボーナスで自転車を買ってもらい行動範囲が格段に広くなる。夕暮れ遅くまで友達と共にあちこちと冒険の旅に出かけたものだ。最初は地元をウロウロとしていたのだが、ある日のこと「めっちゃええとこあるで。キレイな体育館や。卓球やバレーボールもできるねんで。見に行こうや。」と近所の友達に誘われる。東隣りの深江にも卓球場やスケートリンクはあったのだが、いずれも有料で親と一緒でなければなかなか行く機会はなかっただけに、タダらしいことを聞いて友達について行くことにした。

そこは芦屋青少年センターといって芦屋市民専用のスポーツ施設であり、当時の印象としては見たことのない最新鋭の建物だった。だが建物に入るには受付を通らなくてはならないのだが、市民専用なだけに小生たちのグループはおそらく入ることは出来ない。そこで考えついたのが受付の窓口の下壁に沿って侵入することだった。まあ、小学生が考えそうなことである。思い切って決行するが人数が4人ぐらいだったのですぐに見つかってしまい「君らはなんや?」と問いただされて「ここは芦屋市民やないと利用できんぞ」と追い返されてしまった。

つまみ出されたと云うほどではないが子供にとっては「おっさんに怒られた!」という感覚で、すごすごと退散することになる。それにしても入口の向こうに垣間見た体育館はとてもキレイでそこで遊んでいる人たちが羨ましくて仕方がなかった。

そんな苦い体験をした芦屋だったが、それからというもの何気に興味が湧きたまに遠征するようになる。小学生の目線で見た芦屋は、やたらに長い石垣や塀が続く町であり、地元の青木とは違って行き交う人が少なく、整った静かな町という印象だった。ただ、漠然と自分たちの町とは何かが違うということを色濃く感じていた。





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