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悲しみのような恵み。

雨が降ってた。
空気は湿って、窓は濡れて、空が曇っていた。
雨はよく悲しいことの例えに使われる。恵みなのに。粒がガラスやコンクリートや草木に当たって弾ける、その小さな音で自分は大きなモノに囲まれて暮らしているんだと自覚する。そこに何かが確かにある事を音を通して初めて知る感覚。人が受け取る情報の8割は視覚だけど、その情報が確信に変わるのは残りの2割の部分があるから。
雨が降ってる、窓を叩く雨粒の音、コンクリートから甘い匂い、髪が濡れる、なんか汚いガスとか混じってそうだから上向いて口開けるのはやめとく。ここ東京だし。

清掃のバイト中、建物の窓から見える景色は雨のせいでいつもは見える遠くの建物の方にグレーの幕が降りてる。湿って、絶え間ない雨音に比例して街の色彩が深くなって、遠くまで見渡せなくなった雨の中では街と自分がより密着している気がして好き。
傘の中から見える景色は視界が狭過ぎるから傘を差すのが嫌いで、濡れながら歩くけど全然嫌じゃない。さっき言ったみたいに、この雨にどんな汚れが混じってるか分からないのに。

私は雨をどこか神格化しているのかも。だって雨って凄過ぎる。世界一のお金持ちが世界一大きなバケツを用意したとしても、きっと雨のように一瞬にして町中を水浸しにする事なんて出来ない。道も建物も森も私もあなたも、ものの1分で全部ビショビショ。そして草木が育って実がなる。
なんてこった!かなうわけねえや!!

気持ちが落ち込んでいる時に雨が降ると他の人や物と同様に私の事も濡らしてくれて有難いと思う。雨は色々紛れるから、不思議な事がよく起こるし、疎ましい感情達が滲んでぼやけて、悲しみや痛みや綻びは溶けていく。思い出せなくなる前に絵にでも残しておこうと鉛のような身体が動き出す。恵みになるんだ。

自然は平等に与えて奪う。大いなる力は羨望や尊敬の対象であると同時に脅威でもある。


例えば、(上の2行で共感してくれたらあんま読まなくて良いかも。)

ヒンドゥー教には沢山の神様が居て、人によって特に祀っている神様が違う。その中でも人気なのはやはり力の強い神様で、五穀豊穣や商売繁盛の為にお供えをするという。
カーリーという血と殺戮を好む戦いの女神が居る。普通にめちゃくちゃ恐ろしいし、そんな如何にもな怖い神様いるんだって思うけど、熱心な信者が居る。毎朝、山羊や豚を生贄として捧げるらしい。物凄く力のある神様で、信仰を怠ると強い災いが降り注ぐのに、その分恩恵が凄まじいのでカーリー神の聖地であるお寺には山羊や豚の血で出来た川が絶えず流れていると。




正気の沙汰じゃねぇ!と思うと同時に、その切実さがかわいくて美しいと思う。私は無宗教だけど、雨の中で滑るように歩く時、何かとても遠くて近くて、大きくて小さな存在が頬を撫でてくれている様な気持ちになる。雨乞いをした事も雨に何かを捧げた事もないけど、だからこそ尚更与えられていると感じる。多分現象として、相手として存在が大き過ぎるから。
でも別に雨が降るたびに飛び上がって喜ぶ訳でもなければ、雨が少ない時期、それのせいで悲しくなることもない。ただ降ると静かな気持ちになる。それが嬉しい。ただ雨が好きってだけの引用と文章。


でも正直、天気痛があるからしんどい面もある。私の場合は頭と首が痛くなる。
痛みは、私が望まなくても私を逞しくする。
雨は、街を濡らして木々を育てる。
雨が私を濡らす時、私の中の悲しみが紛れる。
痛みを伴えども足取りは軽く、自分に不都合な事で何かが喜んでる。
俯きがちな雨の日、公園へ行くといつもより青々と笑う自然に会えるのが好きだ。
悲しみに何度目かも分からない別れを告げた時、それまでより優しく逞しくなっていく自分が好きだ。

雨は必ず止んで、また必ず降るけど、その度世界は青々と生まれ変わる。
地球に住んでる。つながってる。なんて素敵。
雨が好き好き!降れ降れ!止め止め!

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