音楽文化の衝突〜note×ピティナ ♪ 角野隼斗さんトークイベントを聞いて〜
繁忙期のためにnoteの執筆が全くできなかった10月。ちょうど第18回ショパン・コンクールが開催され、Youtubeでその模様が配信されていたのでよく聞いていました。今回のショパン・コンクールでの最大の収穫は、角野隼斗さんというピアニストを発見したこと。これは別稿で書きたいと思いますが、先日、角野さんやピティナ育英・広報室長の加藤さん、コンクール期間中「ショパコン日記」を連載されていた飯田有抄さんを迎えたオンライントークイベントが開催されました。
ショパン・コンクールの裏話など、興味深いお話が盛りだくさんだったのですが、私が一番印象に残ったのが”音楽は現地で生で聞くもの、という考え方と、技術が発達して配信で聞くことができるようになったことによる新たな考え方”(ざっくりまとめるとこんな感じでしょうか)の「文化の衝突」という角野さんの言葉。考えさせられました。
振り返ってみれば、19世紀末にレコードが発明されてから、演奏会に足を運べない人々も広く音楽を楽しめるようになり、いわば「音楽の大衆化」が起こりました。でも、レコード、CDの文化が盛んになっても、クラシックの世界ではどこか「生が一番、レコードやCDは音楽体験として一段劣るもの」のような風潮があったように感じます。
ジャズやポピュラー音楽では比較的早期にそういう「偏見」はなくなっていったように思いますが、やはりクラシックでは「生(現地で聞くこと)」と「録音」の間に長いこと壁があったのではないかなあ。
一つには、それは、音楽体験がただ流れてくる音楽を聞くことにとどまらないというのがあるのかもしれません。古い歴史ある建物や教会で演奏される際に感じる畏怖の念、会場のある場所そのものがもつ空気感、聴衆、音響…すべてが音楽体験を構成するのです。なので、クラシックを愛好する人が特に現地で・生で聞く体験を重視するのは分かります。
これに対して、完璧さを追求でき録音ならではの音響効果を用いたレコーディングの意義もそれなりに認められてきたけれども、「録音か、生か」という議論は常にあって、生演奏の意義が特にクラシックにおいては強調されてきた、というのが私見です。
ここに、配信技術の進歩によって新たな視点が加わってきました。「演奏と同時に聞けるけれど現地ではない」というカテゴリーの登場です。
私は今回ショパン・コンクールの生配信を聞いて、通常レコーディングとの大きな違いは「聞いている人と一緒に時間を共有できること」だと感じました。通常のレコーディングにはない一体感。これが本当に新しくて、大きな変化だな、と思っています。
確かに、現地で聞くのと配信で聞くのでは音の聞こえ方は違うでしょう。配信ではピアノから発せられる音圧は感じられないし、ホール独特の音の響き方は感じることが難しい。
でも、「聞いている時間を多くの人と共有できる」というのは、時間芸術である音楽の大切な構成要素を満たしてくれる、と思いました。
角野さんが「コンサートホールで音を響かせることが難しい場合も、微妙な変化が非常に美しいということがある。録音や配信ではそこを捉えることができる」という趣旨の発言をされていたのも印象に残りました。演奏者ならではの視点ですね。また、彼は、現地にも人がいるし同時に配信も行うという”ハイブリッド”方式の配信もやっているけれど、サントリーホールでの公演で現地ライブと無観客配信を分けて行ったことがありますよね。「弾き方が違うから」、と。日頃から自分でYoutube配信を行っている彼らしい考え方だな、と思いました。
角野さんが言うように、現地で・生で聞く体験と配信で聞く体験はそれぞれ別の価値があると思います。私も、最後の音が鳴り終わってそれがただの空気の震えになり、ついに耳には聞こえないくらいの振動になって消えていく、そういう、会場でしか味わえない感覚が好きだから会場で聞くことは本当に好きですが、「配信で聞く」という文化が、多くの人に音楽の魅力を伝えることにつながれば、と思います。「文化の衝突」から何かが生み出されるのではないか、という気がしていて、その新たな地平に期待を膨らませています。
マイクがたくさんあって、演奏する立場としてはやりにくかった面もあるようですが、今回のショパン・コンクールの配信は本当に楽しませていただきました。演奏者の皆さん、そして関係者の皆さんに心から敬意を表します。
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