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三年寝太郎のケツイ(ふたたび)

1年前に全く働いていなかったわたくし三年寝太郎は、5月に「働く」という超難関ルートへ進むことを決意した。

そして無事、「働く」ことを始めることができて半年がたった。これは間違いなく後世に語り継がなければならない偉業である。
更に現在、「働き続ける」という超超難関コースをかろうじて生き延びている。これはもうノーベル賞を貰ってもおかしくないほどの奇跡である。

この超超難関コース、軽々と生き延びられるほど容易ではない。
やはりそれなりのストレスや困難が日々波のように打ち寄せてくるのだ。

私はない頭で考え続ける日々が多くなっていた。
今までは「考える=探求」的な思考だったので、考えることが楽しかったのだが、やはり超超難関コースともなると、苦しいことを考えることが多くなってしまった。

これではダメだと、私と同じような超超難関コース、または、鬼難関コースを生きている人たちの声を聞いたところ、
「日記をつけるのはとても良いことかもしれない・・・」
という、なんとも原始的な仮説にたどり着いた。

これが寝太郎の私に合っているかはともかく、自分の頭を整理し、更に出力するという行為は訓練しないとなかなか身につかないものである。
なので、この仮説を試してみることにキメた。

以前、半年ほどこのnoteで日記を書いていたが、だんだんしんどくなってやめた。そのあと文章を書くことのハードルを自分で上げてしまったらしく、なんとなく「文章を書く」という行為が苦痛になってしまった。

正直、今書いているのも、結構重い腰をあげている感覚が拭えない。
やはりどれだけ偉業を成し遂げても根は寝太郎なので、「がんばる」ということを極力避けたいという動物的本能がある。

なので、頑張らずに楽しく続けていく方法をなんとか模索したい。
答えが出てから行動するとなると、模索中に死んでいくことになりかねないので、まだ答えは出ていないが、とりあえずはじめてみることにする。
正直答えは「続けていけばそのうち楽しくなってくる」なのではないかという仮説もある。
この仮説も含め、やはりはじめてみないと実証できないわけだ。

というか、今しんどい作業なのに、最初から楽しくなるわけがない。
しかし文章を書くのは嫌いではない。そこが頼みの綱である。この「嫌いではない」にしがみつきながら、とりあえず今は無心で手を動かすことに徹するしか、私が日記をはじめる方法はない。自転車の漕ぎ始めと思うしかない。

そんなかんじのスタンスなので、今回は「決意」ではなく「ケツイ」とした。カタカナにするだけで、なんとも間抜けな単語になる。このくらい間抜けなケツイだと、少しは気楽にやれそうな気がする。
こんな工夫ひとつで少し気持ちが楽になるなんて、人間ってチョロいし言葉って怖いなって思うよね。

とりあえず今日の日記は、ケツーイしたということだけ記しておきますえ。

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