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父とのキャッチボール

 これといった理由はなかったが、なんとなく苦手だった父。
会話することも、高校生になった頃には極端に少なくなり、ただ一緒に暮らしている。そんな存在になってしまった。
では嫌いだったのか、と聞かれれば、それは違う気がする。
馬鹿にされたり口喧嘩をしたり、間違っても手を挙げられる事などなかったし、仲が悪かったわけでもない。
 ただ父と子という絶対的な関係がどこか不自由で、押し黙った日々が習慣となり、習慣がやがては苦手意識を生み出していったように思える。

  先日、息子と美術館へ行った。
三十ほどの歳の差が息子とはあるが、私の影響をそれなりに受けたからなのか、趣味が合うというのか、映画や音楽、文学についてよく話もする。
 ひとつ屋根の下で長年暮らしてきたのだから、何ら不思議なことでもないと思いながらも、まんざらでもない自分がいる。もちろん、今でも多少の気は遣い、言葉だって選んだりはしているが、コミュニケーションはとれているだろう。
 では、私と父とはどうだったのか。
 
 私の父は国鉄(現JR)を四十年間勤めあげ、その退職金を元に大きな家を買った。 趣味だった盆栽の数も相当数あり、それら全部を見事に庭へ配置し、日夜手入れするのがなにより好きな人だった。
 人を招いては、育て上げた盆栽や皐月を眺めつつ、お茶などすするのが日課だった。
 秋ともなれば夜明けを待って、キノコ採りなど一人で山歩き三昧。十八歳までしか一緒に暮らしていない私との会話に、映画や音楽、文学についてなど、ひとことも語られたことなどなかった。
 でもそれは、父だけのせいだったのか、、。

私はと言えば学生時代、野球やフォ―クソングに夢中で、食事や入浴の時間を除けば自室にこもり、家族とは最低限の会話しかしてこなかった。
 特に父とは・・・。
 自分の考えや進路について、話したり相談することも、父から尋ねられるのも嫌だった。
(きっと話しても、こう言うに違いない)
(きっと知らないだろうから、話してもしょうがない)
勝手に決めつけて、いつだって距離を置いた。
 父の考えなど知ろうともせずに。                                                             
 
 親元を離れて一年目の冬。
「大学を辞めたい」と、告げるため、私が突然実家へ帰った時だ。
珍しく父は神妙な顔つきで、じっくりと私の話を聞いた後、落胆した言葉で
「休学では駄目なのか…」
ぽつりと言った。
 私は、そばにいる母の顔色を気にしながら
「もう決めたことだから」
きっぱりと答えた。
何も言わさないと言わんばかりに。

 のちに、
父は学生時代、家の都合で進学は諦め、中学を卒業すると地元で働くしか道はなかったらしいと、母から聞かされた。
 そのためか、できれば自分の子供には大学まで進ませてやりたいと、目標を持ち、仕事を続け、コツコツとお金も貯めていったというのだ。
 そんな父の目標を、長男である私が、まず壊してしまった。
以来、大学を中退した時のことについて、父とは一言も会話していない。

 父は七十二歳で他界した。
晩年、よく口にしていたこと、
「車はお金がかかる」
「兄弟でのお金の貸し借りはやめろ」
「お母さんの面倒だけは頼む」
思えば、私はいつだってその一つ一つにたいした反応も示さず、ただ黙って頷くだけだった。
 ー本当は私からの言葉を、父は待っていたのではないかー
 ーぎこちない会話でもいいから、言葉のキャッチボールを、ずっと前から     したかったのではないだろうかー
 いま、息子との会話の後、ふと、父へ<返し忘れたボール>を思い出し、拾い集めては空を見上げ、力いっぱい投げ返している。
 「おーい、いくよー!」



#創作大賞2024 #エッセイ部門



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