ジャーニー


わたしのおじいちゃんは、もう長くはない。
おじいちゃんがこうなるまで、病院が今までこんなに白くて、清潔で、さびしくて、痛々しいものだとは思ってもいなかった。それはこの少人数の部屋に限ったことなのか、それとも一般の大人数の病室もそうなのか、わたしにはわからない。
家族の、必死におじいちゃんを呼ぶ声がひどく響いていて、こんな狭い場所なのにひどく大きく聞こえた。
「おじいちゃん、ななこっ」
姉の都も叫んでいた。
その声は、また別の人の名も呼んでいる。
病院の痛々しいイメージはこういった家族の静かだったり焦っていたりする声から連想されたのかもしれない。涙を滲ませる姉とは打って変わって、父は口を一文字に引き結んで、銅像のように動こうとはしなかった。その姿はこれから起こるであろう悲しみを前に、堪えることしか出来ないといった表情をしていた。
おじいちゃんのベッドの横にもうひとつベッドが置かれていた。父と母と姉と弟が、そのふたつのベッドの間に丸いパイプいすを並べて、うなだれるように座っていた。クリーム色のカーテンがふわんと膨らんで、わずかに開いた窓からあたたかい空気が少しだけ流れてくる。窓の外には初夏の午後のとても穏やかな世界があるようで、カーテンの端から一瞬だけ陽光がすっと病室に射し込まれた。その光が照らしたのは、おじいちゃんの隣のベッドで眠っている、十六歳の七湖。
わたしだった。
無表情で横たわる自分とおじいちゃんの姿を、ぼんやりと見ているのはとてもふしぎな光景だった。一週間前までおじいちゃんのベッドに寄り添い、自分も今の家族のように声をかけていた。
おじいちゃん、今日はね……。
何度声をかけてきたろうと思う。それは苦痛ではないけれども、届くことがない声だとも分かっていた。白いベッドに倒れてしまうとそこは別世界になってしまって、こちら側の声など聞こえていないのだと。分かっているのに、それでも、もう一度目を覚ましてほしくて声をかけていた。
なのに今は、わたしはベッドから離れた病室の天井の隅で、声をかけられる側に回って、自分を見下ろしているのだ。自分で、家族の声を聞いている。それだけでなく、見ている。
まさかと思った。ついさっき、気が付いたらわたしは家族と一緒に自分を取り囲んで、懸命に呼ばれる名前を聞いていた。そうしたらふわりと体が浮いて、天井の角でみんなを見下ろすことになった。
寝ている自分の姿に数十分はびっくりし、体があるように感じるがうっすらとしか見えない魂の自分に数時間はびっくりしていた。そして、一夜明けると、わたしの隣に眠っているはずのおじいちゃんがいたから、さらにびっくりすることになった。

「七湖と会話をするなんて、いつぶりかなあ」
おじいちゃんは入院する前の笑顔のまま、わたしの真横でにこにこしていた。
「おじいちゃん、久しぶり……」
呆気に取られるわたしにおじいちゃんは「そうか、いつもわしは七湖の声を聞いていたけど、わしは返事が出来んかったからなあ」としみじみと答えて、そうしてまたにっこりと笑った。
どうやら、おじいちゃんは三ヶ月前に目を覚まさなくなってから、ずっとこうしてみんなを上から見守っていたようだった。わたしたちに必死で声をかける家族を見下ろしながら、おじいちゃんとわたしは久々の再会を喜んでいた。この状況はどちらも体から魂だけが抜け出しているので本当なら楽しいものではないのかもしれないが、ずっと話したかった人と会話することが出来ていたから、今はそれがとにかく嬉しい。今、もう命の終わりに近づいていて眠っているはずのおじいちゃんと話せることが、わたしにとっての現実なのだ。
でも顔色のよくない布団の中のわたしは、わたしであってもわたしじゃない。それらはすべて幻想のように、現実味のない景色だった。
「七湖、おじいちゃんも、お前を心配しとったよ。だっていきなりこの部屋が騒々しくなって、まもなく空いていたベッドに七湖が運ばれてきたんだ。おじいちゃんはもうずっと、家族の声を聞きながらなにも返すことができなかった。でも、お前がきて、わしは最後のチャンスをもらったと思ったよ」
わたしはおじいちゃんの言葉を聞きながら、あの日の出来事を思い返していた。魂となっても記憶というものはあるらしい。人によって違いはあるのかもしれないがわたしは意識が飛ぶ直前までの、すべて鮮明に思い出すことができた。その映像には、音も、においも、空気もくっついていて、おじいちゃんの声が遠のくのに連れ、だんだんとわたしはあの日の自分へとトリップしていった。

ベルが鳴った。重々しい、鐘のゴーンという低い響きが数回校舎に響き渡って、担任が短く連絡事項を伝えてホームルームを締める。静かな廊下がにわかに騒がしくなり、前後の教室から生徒たちがちらほらと、姿を見せ始める。七湖のクラスも挨拶をすませてみんながそれぞれに動き始めていた。もう一度席に座り直して読書をする者、さっさと帰る準備をすませて友だちにさよならを言う者。でも、大半は部活へと駆け出して行く男子と、それほど慌てた様子はないが同じく部活へ行く女子が絶えることなく教室から出て行くのだった。
七湖も例に漏れず、部活へ向かう女子だ。けれどクラスに多い運動部員ではなく、こちらは文化部で、それもあまり人のいない写真部だったため教室からほぼ人が出て行った後に動き始めるくらいでも問題はなかった。
廊下側の列の真ん中あたりに、眼鏡をかけた勉強の得意な男子が席についてノートを広げていた。とうとうがらんとしてしまった教室で、七湖は眼鏡の男の子、佐藤をぼんやりと見ていた。彼についてなにかを考えていたわけではなく、ただなんとなく頬杖をついて眺める先がその人だっただけだ。七湖は佐藤よりも左ななめ後ろの、真ん中の列の一番後ろの席だったから、それは自然のことと言えた。
開いた窓の下に広がるグラウンドから、陸上部の笛の音が軽快に鳴り出す。時計に視線を移すと午後四時を迎えるところだった。写真部の今日の活動はなんだったかと想いをめぐらせる。もうそろそろサッカー部の地区予選があるので、その記事と写真を頼まれていることを思い出して、はたとなった。佐藤も確か、サッカー部ではなかったろうか。エースではない気がしたが、それでもだんだんと力をつけ始めたこの高校では、去年から副顧問も増えてやる気の満ちた空気があった。二年は先輩に混じって試合に出場することだって不可能ではない。ではなぜ彼はこんなところにいるのだろう。
ちらりと斜め前の黒い背中を見やると、七湖の疑問を跳ね返すように彼は一生懸命ノートになにかを書き込んでいた。シャーペンがしゃくしゃくと小気味よい音を立てて白い紙の上をすべっている。
そういえば、と思い出したことがあった。以前図書室で見かけた佐藤は、なにやら熱心に図書室のものでない本を読んでいた。タイトルは「魂の在処」。七湖には縁がなさそうな本だったのでどういう内容がそこに書かれているのか想像できなかったが、また別の日に見た別の彼の本で、佐藤がなにを勉強しているのかぼんやりと知った。その時に読んでいたのは、「肉体と魂と心について」という本だった。これも図書館の本ではない。なぜそう分かるかといえば、背表紙に高校の書物だという印のシールが張られていなかったからだ。
佐藤はどうやら心と体の根っこのところに興味があるらしい。それを今、七湖は思い出したのだった。
興味が惹かれた。今まで知らなかった世界だ。話したい。
ところが、七湖は積極的でもなければ大しておしゃべりでもない。話題を豊富に持っているわけでもグループのリーダー的存在でもなく、平凡な、目立たないただの女子高生だ。話しかけてみようという結論には到底至りそうになかった。向こうから話しかけてくれたら別なのだろうが。悶々と考えるほどでもなかったのに気が付いたらなにか共通の事柄はないかと探すのに頭を使っていた。佐藤はそんな七湖の思いに気づいているかいないかということ以前に、この教室に自分以外の人間がいるということさえ気づいていないようにも見える。
共通の話題なんて見つからない、と思っていたら佐藤が書き物を中断してノートを閉じた。顔を上げ時計を確認して、リュックに筆記用具をしまう。
七湖は胸がどきどきした。話しかけてもいないのに、もう帰ってしまうのかと残念な気持ちが込み上げてくる。
佐藤がいすから立ち上がる。話しかけられないのなら、せめて行動で自分の存在を示してみようと咄嗟に思いついた。七湖も立ち上がって鞄を引っつかむと、ぱっと佐藤が驚いた顔で振り向くのを横目に、足早に部室へと走っていった。
それから軽装になるとカメラを持ち、グラウンドへ向かった。県の首位争いをするほどにここ二、三年のサッカー部の功績は素晴らしく上昇している。している、とはいっても七湖の知るサッカー部は強くなってからなので、一昨年の卒業生である姉からの情報で知っただけだった。比較はできないが、部員の集中力は確かに目を見張るものがあった。まだ地区予選前だというのに、この気合はなんだろう。ウォームアップをすでに終えた彼らは、二チームに分かれて試合を行っていた。監督の目が厳しく見つめている中、あっちだこっちだと威勢良く声が上がる。試合に出ていない者もしっかりと参加して、指を差しながら声を張り上げていた。
七湖はサッカーのルールを詳しくは知らない。人並み程度だろう。けれどカメラを構えるとファインダー越しでも彼らの熱さと真面目さが伝わってくるので、ルールを知らなくても応援したくなってしまう。
夢中でシャッターを切った。太陽は初夏のおだやかな光をそこらじゅうに降り注いでいた。だんだん日が延びてきたと思う。と、カメラの向こうに、ひとりでウォームアップしている部員の姿があった。佐藤だった。やはり彼はサッカー部だったのだ。遅れてきたためにまだ試合には参加していないのだと七湖は思った。
そのときだった。ドン! という強い衝撃に、頭が大きく揺れた。遅れて、「危ない!」という声も耳に届いた。
世界が暗転した。

「七湖や。おうい、七ちゃんや」
ひらひらとしわしわの手を目の前で振るおじいちゃんに名前を呼ばれて、はっと気が付いた。とたんにその場の白さに目がくらんで、「うっ」と情けない声が漏れる。そうか。ここは病室だ。おじいちゃんの優しい笑みに同じく笑いかけながら、心の中では動揺が治まらなかった。
わたしはあのとき、首の後ろにサッカーボールが当たってしまったんだ。
まさか、そんなことってあるの?
今更ながらそんな思いがもこもこと溢れてくる。
「七湖が眠っている間、お見舞いにきた人たちがお母さんに話しているのを聞いたよ」
肩をすとんと下げておじいちゃんはぽつりと言った。どきんと胸が鳴った。
「お前がどうしてこんなことになってしまったのか。直前のことを覚えているかい?」
わたしはこくこくとうなずいた。覚えている。それも鮮明に。その日の朝はいつもとほとんど変わらなかったのかもしれないけれど、確実に違ったことがあったから忘れようがなかった。佐藤くんだ。
「そうか。それじゃ、どうして今七湖がここと下とに別れてしまっているかも、分かるかね?」 
おじいちゃんは続けて、ここ、というときにわたしのいる場所を指し、下、というときにベッドを指して聞いた。別れているというのは、たぶん、魂と体が別々になってしまったことを言っているのだと思った。どうしてそうなっているのかは分かる。分かりたくないと思ったが分かってしまった。サッカーボールによって、肉体から、魂だけがぽこっと押し出されてしまったのだ。
つまり、わたしはもう、この世界にいてはいけない人ということ?
「おじいちゃん。わたし、もう死んじゃってるのかな?」
たまらなくなって訊ねた。自分がふたつに別れている。しかもひとつは心はあるのに体がなく、もう一方は体があるのに心がない。そんなことってあるのだろうか。泣きたくなったが、涙を流す体がなかったから泣くこともできなかった。泣きたい心だけ、そこにあるような気がした。
「七湖、悲しむことはない。お前はまだ戻れるだろう。そのためにわしもここにいるんだからな」
おじいちゃんはそう言って、ふごふごと笑った。わたしの悲しみをおじいちゃんが分かってくれるのは、魂で触れ合っている人同士だからだろうか。それでも不安はぬぐえなくて、今すぐ自分の体にぶつかって、えいっと無理にでも入り込みたい気持ちになった。
でもそれはきっとできないことなのだ。もしできるというなら、最初からこんな簡単に魂が抜け出してしまうこともないだろう。
「わしらは、生きている者の世界にいる、生きている者に違いない。しかしね、体と心がひとつになっていないと、生きている者と同じことができなくなってしまうんだ。あそこへ戻ることができれば、しっかりと動くことができる。家族もそれを望んでいるね。よし、ここにいるとみんなの悲しい顔ばかり見てしまう。少し場所を変えよう。なんとかなるさ」
わたしの肩のあたりをぽんと叩いておじいちゃんはにいっと笑ってくれた。みんなで暮らしていたとき、困ったことがあるとまずおじいちゃんに相談していたときのことを思い出す。大事にしていたガラスのコップが割れてしまったことや、飼っていたハムスターが冬を越せなかったこと。それらをおじいちゃんに話すと、おじいちゃんはすべて聞いてくれた後に絶対にこう言ってにっと笑うのだ。だいじょうぶ、なんとかなるさ。

病室をするりと抜け出たわたしたちは、病院の中庭へと向かった。歩くわけでも飛んでいくわけでもなく、おじいちゃんが「こっちじゃよ」と案内してくれる声を頼りについていこうとすると、そちらへ進める、といった具合の、不思議な感覚の移動だった。今までは体で歩くという信号を送っていたのだがそれが省かれているので、思ったよりもスムーズで、あっけない感じがした。けれどおじいちゃん曰く、どこへでも行けるというわけではないらしい。自分自身から離れすぎると、魂がなにかにビンッと引かれるのだそうだ。その時、自分がなにかと繋がれているような気持ちになる。おそらく、その引いている物こそ自分の体と魂を繋ぐ、へその緒のようなものだろうと、おじいちゃんは言った。
「さて」
大きく青々としたイチョウの木が一本立っている中庭へつくと、わたしたちは円形に広がる芝生の外側のベンチに腰掛けた。腰掛けたといっても実際に座るのではない。座る感覚がするだけだ。
「まず、そうじゃな。一番言わなければならん話からしようかの」
ふう、と一息つくふりをして、おじいちゃんはそう前置きした。暖かな日が差してきて、わたしたちのいる中庭はぽかぽかと気持ち良さそうな光に満ちる。おじいちゃんの顔にも薄い金色の光が降り注いでいた。さあっと南風も吹いてきて、木や芝生、中庭に集う人たちを掠めていく。小鳥がなにかしゃべりながら木へやってきては、またどこかへ飛び立っていった。
目の前で起きていることは本当のことで、わたしたちがここにいるのも本当のこと。でも、光の暖かさを感じる肌はないし、風を受ける手のひらもないのもまた事実だった。わたしたちはわたしたちのほかの誰にも見えるはずはないのに、こうして日常の中にいるのはやはりどう考えても不思議だ。
ぼんやりとそんなことを思っていると、おじいちゃんは愉快そうな顔をして話し始めた。
「むかーしむかし、ある若者が世界中を旅していたときのことだ」
物語風に始まったそれは、すぐに「おじいちゃんのことを話しているのだな」と思い至った。今までもおじいちゃんから、自分の話をこんな風に語られたことがあるのだ。このちょっと大げさな話し方が、幼いわたしにはとてもわくわくして仕方がなかった。そのときの気持ちを今も感じて続きを待った。
「旅人は、この世で一番綺麗な宝石を探して旅をしていた。小さな島国育ちだった旅人は、子どものころ、とっても貧乏だった。幼いころに、貧乏でない大人はみんな綺麗な宝石を持っているんだと思っていたんだ。だからいつか世界で一番美しい宝石を手に入れてやる。そう思っていた」
「その旅人は、お金持ちになりたかったの?」
わたしは口を挟んではいけないと思いつつ、抑えることができなかった。旅人がもしもおじいちゃんなのだとしたら、それは今とは似ても似つかない。自分のために何かを収集したり、まして宝石というものに興味があるとは考えにくかった。
「いや、お金持ちとは違うんだよ。そうだね、自分ができないと思われそうなことを、あえてやってみたかったんだ」
おじいちゃんは考えながら、それでもつっかえることなく言った。なるほど。わたしはその旅人、もといおじいちゃんに感心してしまった。それにおじいちゃんらしいとも思った。続きを話していいかい、と目で訊ねられたのでわたしは小さく微笑んだ。
「大きくなり旅に出た若者は、島を出て海を二度ほど渡り、良質の宝石が採れると噂の地へ向かった。そこは暑くて、本当に岩山のようなところがたくさんあってね。旅人は身振り手振りを交えて、どうにか話の通じない相手に、宝石を探しているんです、って伝えたんだ。すると案内してくれたところは金や石を扱う商人のところだった。旅人はそこで、その国一番の宝石を見せてもらったよ」
うんうんとわたしは何度もうなずいた。目の前には、宝石を探すと胸に決意した旅人の姿が浮かんできていて、今はそれがおじいちゃんかそうでないかなどどうでもよくなっていた。
「それは本当に綺麗な銀色の石で、光を反射するごとに虹色に輝くんだ。まるで冬の朝の草露みたいにはっとするような美しさがあったよ。でも旅人は、探しているものはこれじゃないという気がしていた」
「どうして?」
また聞いていられずに口を挟んだが、おじいちゃんは嫌な顔ひとつせず、というよりはいくらか嬉しそうに答えてくれた。「勘だよ、勘」
いまいち釈然としなかったが、今度は黙っていた。けれど言われてみれば、確かに石という自然の物とはフィーリングが大事になるのかもしれない。
「目当てのものを見つけられなかった旅人は、次の国へ行くことにした。次の国は、海を挟んだ大陸にあったから、旅人は船に乗ったよ。でもその航海が、とっても長くて、次の国へつくころにはもうへとへとだった。へとへとになって、もう船なんかには乗らないぞって思っていた。そこで宝石が見つかってしまえば、あとは自分の島へと持ち帰るだけなんだから、少しは気も楽になるだろう」
「うん、そうだね」
「その国で、旅人は言った。綺麗な宝石を探しています、って。そこでは、透き通った赤い果実のような石を見せてもらったよ。つやつやのざくろみたいな石だ」
「それって……」
言いかけると、おじいちゃんがいたずらな顔をして人差し指を口に当てた。
「その石も、びっくりするくらい高貴で、素晴らしい宝石だった。今まで見たこともないくらいに赤いんだ。でもね、そこでもやはり、この石じゃないと直感した。だから旅人は、すぐにその国を出発したよ」
それから、とおじいちゃんは続けた。
「大陸中を歩き回り、海をいくつも超え、また陸に上がって石を探した。でも、どこにも旅人を満足させてくれる石は見つからないんだ。半ばやけくそになって、旅人は北極のほうまでも探しに行ったよ。もちろんそこには氷山しかなかったから、寒すぎて石を探すどころじゃなかったけどね」
わたしは笑った。おじいちゃんの言い方と、寒さに震える真似があまりにも面白かったからだ。
「そうこうしているうちに、気がつけば世界中を巡っていたよ。宝石は見つからなかったが、そんなことはあまり重要なことではないかもしれないと思っていた。けれど最後に立ち寄った国で、こんなことを聞いたんだ」

『七つの海を渡った者は、もう美しい石を手に入れている』

ふるふると、わたしの魂が震えた気がした。おじいちゃんに説明を求める視線を送ると、穏やかな顔で続きを話してくれた。
「さらに、その国にはいくつもの湖があって、湖のひとつひとつに伝説があった。どれも宝石を守っている賢者たちの物語だったよ。旅人は湖をすべて見て回って、驚くしかなかった。なんと湖は宝石かと見まがうほどの美しさを持っていたのだからね。実際に湖は宝石に例えられるんだが、そのときの素晴らしさといったら、泣きたくなってしまうくらいに輝いているんだ」
その物語は結末へと近づいていた。魂だけになった自分と、心臓を持っている自分は、離れ離れになっているのに、自分の心がドキドキと高鳴っているのを感じる。
「七つの海を渡った者が手に入れた美しい石、というのは、地球のことだったんだ。旅人はそれを聞いて、運命というものを初めて感じたよ。石を求めて旅をしたのは間違いじゃなかったんだって。そして出会ったいくつもの湖が、宝石のように……いや、宝石以上にまばゆいものだったんだものね。だから旅人はもう旅を終えて、島へ帰って、結婚した。息子が生まれて、大人になって息子も結婚した。そうして生まれたのが、都とその妹、七湖だよ」
「おじいちゃんが、わたしの名前をつけてくれたの?」
おじいちゃんはそれ以上何も言わないで、にいっと微笑んだ。中庭に視線を移したおじいちゃんの横顔は、目の前に広がる宝石の湖を見ているときの旅人そのものに見えた。
胸にあたたかいものが込み上げてきた。自分の名前にそんな隠された冒険がつまっているだなんて思いもよらなかった。
「おじいちゃん、ありがとう。大好き」
わたしも、そろそろ陽が傾いてきた中庭に目を移した。小鳥たちはもう木の傍にはいなくて、風がざわざわと葉を揺らしていた。
「七湖、戻ろうか」
数分だったか数十分だったか。しばらくしておじいちゃんがそう声を掛けてきた。わたしは夕暮れ色に染まった空を見上げ、うなずいた。
病室へ戻ると、そこにはおどろくべき人物がいた。
佐藤くん!
サッカー部の副顧問と佐藤くんに話す母の声を聞いて、どうやらさっきまで他の部員がお見舞いに来ていたのだと知った。わたしがおじいちゃんと世界の旅に出ている間に、ものすごいお見舞いの品が来たようで、部屋のあちこちにリボンでかけられた果物やお菓子などの贈り物が置かれていた。姉と弟がベッドで眠るおじいちゃんに寄り添って、なにやら小さく会話しているように見える。父は母のお辞儀に合わせて、すみませんとか、ありがとうございます、などと答えていた。
「おじいちゃん、わたし、やっぱり戻りたい。どうすれば体に戻れると思う?」
だんだんと泣きたい気持ちがせり上がってきていた。こうして眠り続ける自分を見ているのも辛かったし、家族の困ったような途方にくれたような顔を見ているのも辛かった。そして、ここにいるのに声を返せないこともまた悲しかったのだ。
今まで三ヶ月間、おじいちゃんはこんな気持ちを味わってきたのだと思うと、おじいちゃんをぎゅっと抱きしめたくなる。でも、どうしておじいちゃんは戻らなかったのだろう。戻れなかったのだろう。
「わしはもう自分の体に戻れるほどの体力がないんだ。だから、こうしてその時が来るのを待っていた。わしの思っていたその時というのはもちろん迎えのことだったんだが、それは間違っていた。七湖を送り返すという使命が残されていたんだよ」
これがわしがもらった最後のチャンスというわけさ。おじいちゃんはそう付け加えてまたにっこりと笑った。でも、わたしが答える前におじいちゃんは、今までで一番真面目な顔をして、わたしを見た。
「七湖、わしと一緒に旅をしてくれてありがとう。話すことができてよかった。誰も知らん、わしの特別な秘密だったよ。さあおかえり」
最後に見たおじいちゃんの顔は、やっぱり笑顔に戻っていた。


目が覚めた。
ぱっちりと目が覚めた。
いや、違う。これは意識があるというだけで目を開いたわけではない。徐々に泥水に浸かっていたような意識を持ち上げて、光のあるほうへと歩いた。そのうちにまぶたに強い痛みを感じる。
「七湖……?」
光のせいでまぶたが痛いんだ、と気づいたときには、耳に母の声が届いていた。霞みがかる視界に慣れるまで目を何度もしばたたかせ、ここがどこであるかを把握しようとする。白い天井、そして、薬のにおい。耳に聞こえてくる何人もの声。つぎつぎと覗き込んできた母の泣き顔、父の喜びに満ちた顔、姉のおどろいた顔。あれ、弟がいない、と思ったとき、右胸のあたりに重さを感じて、弟がそこに突っ伏して泣いているのが分かった。
「ただいま」
声を出してみたら思ったよりかすれていた。でも自分の声が自分の耳に届いている。それが体に染み渡ってきて、体に戻ってこれたのだと実感した。
「七湖! 意識が戻った!」
病室がわいわいと突然にぎやかになって、わたしの体をびっくりさせた。戻ってきた、本当に帰ってこれた。みんなの喜びようはそれが現実であると教えてくれた。
その日の夜、おじいちゃんは眠った。みんなは悲しんでいてもちろんわたしも悲しかったけれど、おじいちゃんが最後まで元気に笑っているのを思い出すと、少しだけ心がほっこりした。今までありがとう、おじいちゃん。わたしは泣くのをこらえて、眠るおじいちゃんのくれた言葉を思い出していた。

学校に復帰したのはそれからすぐのことだった。体はまったくの無傷だったので、それが幸いだったと先生に感動された。
でも、明らかに前よりもわたしのまわりの環境が変わっていた。教室でのわたしを見るみんなの目が、自分で言うのもなんだけれど、小学生の男の子がヒーローを見るのと同じ類のものなのだ。しかもそれが飛びぬけて表れているのが、佐藤くんだった。佐藤くんはわたしの起死回生を目の当たりにして、どうやら例の興味をさらに深くしたらしかった。眠っているときって、どんな気持ちなの。ていうか、覚えているの? それから、直前のことは覚えてる? などなど。そして彼はなんとサッカー部をやめて、写真部に入ってきたから驚きだった。そのうち、魂と肉体の関係について論文を書くのだといって、体験者であるわたしに話を聞きたいということのようだ。半ばあきれつつも、少しだけ気になっていた人だったから、まあ悪くはないかもしれない。


そんなことを思っていたら、おじいちゃんが遠くで、笑い声を上げているような気がした。

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