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「教科書」を使わない意味について考える

今回は、久しぶりに「教科書を使わない意味」について、考えてみたいと思います。

PBL(Project-Based Learning)を主軸としたカリキュラムに挑戦し、一定の結果を出せたことによって、自分の中では、教科書を使わなくても言語教育は可能だという確信に至っています。しかし、このような考え方はまだまだ一般的ではありません。実際に、日本語教育プログラムの構築に携わると、やはり「教科書を使ってほしい」というリクエストが出てきます。

なぜ、私は「教科書を使わないこと」にこれほどまでにこだわるのか。今回は、その自分の原点とも言える考えについてまとめておこうと思います。

教科書を使う理由

まず、逆説的になりますが、教科書を使うとはどういうことかを考えてみます。「教科書を使ってほしい」というリクエストが生まれる背景に何があるのでしょうか。私は「教科書を使ってほしい」という考えの裏には、次の2つの背景があるように感じています。

外部への説明が難しい

日本語学校というのは、それ自体で独立した組織にはなりにくいという性質があります。何かの目的のために日本語を学ぶことが多いため、日本語を学んだ先に接続する外部機関が存在します。そのような外部機関に対して、「どのような教育をしているのか」という説明責任が生まれます。

そのとき、「特定の教科書は使っていません」というと「じゃあ、何をやっているの?」という話になります。ここを説明するのは、なかなか骨の折れることです。特に、内容を書類にまとめて申請する段階では、第三者が見ても、納得できるように記述しなければなりません。

「○○の教科書を使っています」と記載すれば、説明は簡単なんですが、「教科書使っていません」ということになると、その中身まで、詳細に記さなければならず、理解を得るのが難しいという背景があります。

教科書を使わずに教えられる教師がいない

よく言われるのが、「ヒラサワ先生だからできるのであって、他の教師にはできない」というものです。かくいう私も、教科書を使って授業をしていた期間の方が長いので、教科書がない授業は試行錯誤の連続です。できるかどうかはやってみなければわからないと思っているので、「誰でもできますよ」とはなかなか言いにくいのが現状です。

授業を担当する教師自身が、「なぜ教科書を使わないのか」について納得しなければ、不安になるばかりだと思います。この部分のすり合わせもなかなか骨の折れる作業です。教科書に教えるべき内容が書いてあれば、自分が何をするのかが明確になります。するべきことがはっきりしていたほうが安心できます。

このような事情は、私もよく理解できるので、なんとか折衷案がないだろうかとあれこれ考えるのですが、やはり、納得がいく解決策が見出せません。

「山の日本語学校」での経験

実は、私も教科書を使わずに授業ができるのかどうか、特に初学者に対して、どのようにアプローチをしたらいいのかはずいぶんと悩みました。自分でもなかなか確信が持てず、文字どおり、試行錯誤の毎日でした。

しかし、私の迷いを払拭したのが、ある学生とのやりとりです。このエピソードについては、当時、私のFacebookに書いたのですが、そのままFacebookに埋もれてしまっては、もったいないくらい素敵なエピソードなので、ここに転載したいと思います。

先週の授業中、学生が急に私に、「先生は、どうしてテキストを使わないのですか?」と質問してきました。唐突な質問だったんで、私は、そのとき、ごにょごにょと何か答えたのですが、翌日、学生が「先生の言いたいことはこういうことですか」と英文にまとめて、持って来ました。

Because in our opinion, every students have their own way of thinking. They have difference perspective in learning and solving things. So if we forced them to learn from a textbook, we are limiting the students mind to explore many other things and limiting their potential also.

「私、こんな素敵な答え言ってた?」と確認すると「はい。合ってますか?」と。なんでも学校のHPの制作チームになっていて、これをHPに載せたいんだとか。

この英文、DeepL先生に翻訳してもらいます。

というのも、私たちの考えでは、学生にはそれぞれの考え方があります。物事を学び、解決するための視点が違うのです。ですから、もし教科書から学ぶことを強制すれば、生徒が他の多くのことを探求することを制限し、生徒の可能性も制限してしまうことになるのです。

DeepL先生もすばらしいけど、学生はもっとすばらしい。

この質問を受けたときのことは、今でもはっきり覚えているのですが、授業中、私はいつものように教室の後ろで、学生の様子を観察していました。学生は、何か作業をしていたのですが、急に振り返って、私に上記のような質問をしたのです。本当に唐突な質問だったので、自分でもなんて答えたのかよく覚えていません。「ごにょごにょ」と何か苦し紛れに答えたのを覚えています。

Facebookに投稿された日付を見ると、2018年の5月になっています。ということは、「山の日本語学校」でPBLを始めて、ちょうど半年くらい経った頃です。

開校当初は、教科書を使わないことに対して、不満を持っている学生もいました。文法、語彙の授業やテストをしてほしいというリクエストもありました。でも、半年経った頃には、そのようなリクエストはほぼなくなりました。

そして、出てきたのがこの言葉だったのです。

この学生は、私の言葉を自分の経験に照らし合わせて、咀嚼し、再構築して言語化したことになります。この文を読んで、私は、自分のやってきたことは間違ってなかったと確信しました。そして、私の考えをちゃんと受け止めて言語化してくれた学生に、胸が熱くなりました。

「教科書」とは何か?

このような話をすると、教科書を使うことが悪いことのように思えてしまうかもしれません。しかし、私は、教科書を使うことを否定しているわけではありません。

「教科書を使わない」と言ったとき、「教科書」が何を意味しているのかをもう少し考えてみます。「教科書」と言っても、実にいろいろなものがあるからです。

私が「教科書を使わない」と言ったときの「教科書」とは、文法項目が詳細に記されており、その文法を習得するための例文や練習項目が記されているものを指しています。いわゆる、文型シラバスで構成された教科書になります。このような教科書を使った場合、そこで、話される内容は、文法項目やそこに記載されている例文に制限されることが多いです。

また、そこに記されている内容が「正しい」ものとなり、それ以外のものは、「正しくない」と判断されることも多いです。教科書にない表現は、テストでは、バツとされることもあります。

ここでいう「教科書」とは、このような役割を持つものです。

つまり、「教科書」は、規範や正しさのメタファーと考えることができるのではないかと思います。規範や正しさに囚われてしまうと、それぞれが持っている考えを規定してしまうことになるのではないか。このことを私は危惧しているのだと思います。

学生が言語化してくれたように、「もし教科書から学ぶことを強制すれば、生徒が他の多くのことを探求することを制限し、生徒の可能性も制限してしまうことになる」ことを私は恐れ、「教科書を使わない」というメタファーで説明しているのだと思いました。

よく考えてみると、先の「教科書を使う理由」を考えているとき、私の視点は「教育機関」や「教師」に向いています。しかし、言語を学ぶのは学生です。「学生の学び」に目を向けたとき、「教科書」はどうあるべきか、考えてみる必要があるのだと思います。

日本語教育は、いろんな制度の中に組み込まれています。そして、そこに関わっている人も、いろいろな制約に縛られてしまうことが多いです。「学生の学び」を中心にカリキュラムを考えたいという意見に賛同してくれる人も、もちろん多いのですが、制度や規範の中に自分自身が取り込まれてしまうと、その束縛から逃れることが難しくなります。

これまで、PBLにこだわってきたのですが、なぜPBLなのかを考えたとき、PBLは、それぞれが持つ思考や可能性を束縛するものから解放するための学習方法の一つであるということに、最近、気がつきました。

このような私のこだわりを再認識した今、このこだわりをもとに、新たな方法を再び試行錯誤する必要があるのだと思っています。ということで、私の挑戦はまだまだ続きそうです。

今回は、原点回帰という意味も込めて、私のこだわりについて書いてみました。今回も最後までお読みいただき、ありがとうございました!

共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!