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自分の価値を見出すために 『自分の<ことば>をつくる』を読んで考えたこと

しばらくnoteをお休みしていました。いろいろあって集中することができず、考えることを一旦ストップしていました。そして、再び「書こう」と思ったのですが、これが書けない。考えることを一旦やめてしまうと、あっという間に書けなくなってしまいます。考え続けること、そしてそれを言語化する(=書く)って、直結しているんだなあと、つくづく感じました。

そんなことを考えながら、2022年最初のnoteを以下のブックレビューにしました。

細川英雄(2021)『自分の<ことば>をつくるーあなたにしか語れないことを表現する技術』

レビューを書くにあたり、改めて読み返してみたのですが、まさに👆の状況に陥っていた私に、ぴったりの本だと思いました。

「自分の<ことば>をつくる」とは?

本の内容を簡単に説明しますが、いきなり引用です。本書の「はじめに」には、以下のように書かれています。

自分の<ことば>をつくるためには、自分の中にあることば(考えていること)をどのようにして自覚するかということと、そのことばをどのようにして他者に伝えることば(表現)にするかの二つがポイントになります。(p.4)

『自分の<ことば>をつくるーあなたにしか語れないことを表現する技術』

ということで、1章、2章では、自分の考えていることをどのように自覚し、どのように表現するのかについて説明されています。

自分の<ことば>とは、自分にしか語れないことです。それを本書では、「自分のテーマ」と呼んでいます。「自分のテーマ」とは、その人のオリジナリティのことであり、そのオリジナリティを見つけるには、自己と他者との対話が必要だと述べています。

ざっくりまとめるとこんな感じかなと思うのですが、これだけでは、なかなか理解が難しいかもしれません。が、本書の最後に収録されている実践例を読むと、自分の<ことば>をつくるプロセスがよく理解できます。

最後の事例では、千葉くんという高校生が、自分の関心ごとをもとに友人と対話をし、その対話をもとに考えたことを作文していきます。友人とやりとりしながら、自分の思考を言語化する。これを繰り返し、自分の<ことば>をつくり出していきます。

自分の<ことば>を表現すること

実は、著者である細川先生は私の恩師であり、大学院在籍中、私も細川先生のクラスを受講し、千葉くんと同じ活動を経験しています。自分の<ことば>をつくる当事者として、また、立場を変えて、メンターとしてもいくつかのクラスに参加しました。

この一連の活動を通して、自分の<ことば>をつくるとはどういうことか、身を以て体験しました。これらの活動のうちの一つが、以下に報告書として公開されています。

「考えるための日本語―日本と私―」ヴェネツィア・ワークショップ・プロジェクト報告

この中で私は、以下のような報告を書きました。

「間違える」という意識をもたらしたもの ―参加者ジーナの意識の変遷からー(pp.20-37)

ジーナさんという一人の参加者が、「間違える」という意識を乗り越えて、どのように自分を表現していったのかを具体的なやりとりをもとに説明し、考察しています。改めて読んでみると、ジーナさん自身が、千葉くんと同じように、自分の<ことば>を獲得していくプロセスがわかります。

この活動の経験は、この後の私の日本語教師としての意識に大きな影響を与えています。日本語学習者が自分の<ことば>をどのようにつくっていくのか、そのプロセスにおいて、日本語教師なら誰でもやっている「間違いを訂正する」という行為が、「表現する」ことに対してどう心理的な影響を与えるのか、を深く考えるきっかけとなりました。

自分の<ことば>を公開すること

本書の1章、2章に書かれていることは、このような活動を体験すると、感覚的によく理解できます。言語教育という現場で、「自分の<ことば>をどのようにつくるのか」は、私の言語教育活動の一つのテーマとなっていて、これまでいろいろなチャレンジをしてきました。

自分の考えていることを自覚し、その人でなければ語れないことを言語化することは、人間関係が成立し、心理的安全性が保たれた教室であれば、母語だけでなく、学習言語であっても実現できると私は思っています。むしろ、言語教育という場でこそやるべきだとも思っています。

しかし、今回、著書を読んで気になったのは、言語化したものを「公開する」ことです。

この「公開」については、本書の3章で扱われています。本書のサブタイトルにもなっている「あなたにしか語れないことを表現する技術」が本書のメインテーマだとすると、1、2章を読めば十分な気もします。しかし、今回は、わざわざ章立てをして、「自分のテーマで対話すること」について書かれています。

大学院生だった当時、「考えるための日本語」の活動に参加したときには、この3章に書かれていることは、あまり意識していませんでした。しかし、今回、改めて読み返し、この3章に書かれていることが、本書の肝なのではないかと思いました。

そこで、ここでは、この章を中心に「公開する」とは何かについて考えてみたいと思います。

一つ注意したいのが、3章で書かれていることは、まず、1、2章で書かれているプロセスを通して、自分の<ことば>を獲得することが前提となっているのではないかということです。自分にしか語れない自分の<ことば>=「自分のテーマ」を見つけたあとどうするのか?これが、3章のテーマだと私は理解しました。

3章では「表現活動」という言葉がたくさん出てきます。今回は、この「表現活動」を「自分のテーマ」を見つけたあとの活動と捉え、考えてみることにします。

本書では、「自分のテーマ」を見つける、または、自分の<ことば>をつくるために、他者との「対話」が欠かせないと主張されています。「表現活動」も同じです。「自分のテーマ」を見つけた後も、他者との対話を繰り返す必要性がが主張されています。当然、ようやくつかんだ「自分のテーマ」が、絶えず、揺さぶられていきます。

一度「自分のテーマ」を見つけたからと言って、それが全く変わらないのではなく、その後も、変化を続けるということです。

しかし、これは、結構つらいことです。

私も、自分の考えをnoteなどに書いていますが、いまだに、公開するのに勇気が必要です。「このような意見を表明したことで、誰かを傷つけることになるのではないか」「誰か不利益を被る人がいないだろうか」そして、何よりも「自分の考えは誰にも理解されないかもしれない」「自分の意見が批判されるかもしれない」ということを心配します。先にあげた報告のジーナさんと同じ気持ちです。「間違えていたらどうしよう」という気持ちを拭うことは難しいことです。特に、不特定多数の人が読むWeb上の記事は、このような不安がいつもつきまといます。

それでも、最終的には、「えいや!」と公開します。(実は、公開できずにお蔵入りしているものもちょいちょいあります)

こんな大変な「表現活動」を、なぜわざわざ続けるのか。その一つの考えがここに書かれているように思いました。というわけで、著書を読みながら、師匠と対話してみることにしました。

なぜ「表現活動」をするのか

なぜ「表現活動」をするのかを考えるため、まず、「だれのために表現活動をするのか」という問いを立ててみます。この問いに対し、師匠は以下のように説明します。

では、表現活動はだれのためか、というと、表現もまた自己のためであるとしか言いようがありません。しかし、その表現は常に他者に向けられ、他者との関係の中で育まれます。したがって、表現活動における自己と他者との関係は、他者あっての「私」、「私」あっての他者なのです。(p.169)

他者の存在が前提でありつつ、表現をするのは自分のため。まあ、その通りなんですけど、大変だなあとか、面倒くさいなあ、しんどいなあとか思いながらも、やっぱり書いてしまう。これは、どうしてなんだろう?

師匠は以下のように答えます。

自己表現というのは、自分の生きるテーマを見出すということとほぼ同義だからなのです。(p.177)

「自分のテーマ」とは、「自分の生きるテーマ」のことなのか。それは、わかった。じゃあ、発信する意味とは?

言語による活動とは、個人が社会とつながるための重要な活動であるということができないでしょうか。(p.180)

私は、社会とつながるために発信しているのか?なぜ?

だからこそ、あなたにとっての経験をもとにした表現活動は、あなた自身がことばを使って自由に活動できる社会の形成のための重要なカギになると言えるでしょう。(p.181)

私は、自分が自由に活動できる場を求めて、発信しているのか...

大切なことは、対象となる経験が表現として現状を変えていくために必要な材料であるということです。ですから、それについて考え、表現することが自分にとって意味のあることであり、それを人に向けて発信することを通して、今自分の考えていることに一つの結論を得ようとしている、ということなのです。その経験の一つひとつは、そのときの説得のための材料として、とても大切な手がかりとなるのです。(p.190)

私の経験に意味がある。なるほど。と、こんな対話をしながら、さらに考えたことを次にまとめます。

自分の価値を見出すための表現活動

『自分の<ことば>をつくる』は、もともと『論文作成デザイン―テーマの発見から研究の構築へ』という著書がもとになっています。これは、大学や大学院等で論文やレポートを作成する人を対象に書かれたものです。しかし、今回の著書は、それを一般向けに書き直したものだそうです。

今の時代、「発信する」ということが容易になりました。文章に限らず、一人一人の「表現活動」のハードルは、とても低くなっています。「表現活動」が、一部の限られた人のものではなく、その気になれば、誰でもできるようになりました。

念のために付け加えると、ここでの「表現活動」とは、ただブログやSNSで発信することだけを指しているわけではありません。身近な人とのやりとりや、会社なのどの組織でのやりとりも含まれます。

これまでも「表現活動」は必要だったのですが、発信が容易にできるようになった今の社会では、「自分のテーマを持つ」ことが、すべての人に、これまでより重要になっているのではないかと思います。

ここ1か月くらい集中できないことが多く、なかなか「考える」ということができませんでした。海外からの人の流れが止まり、自分の思うような活動ができないことも多く、自分の行ってきた仕事の価値を考え直さざるを得ない状況にあります。

それでもやはり、自分の行ってきたことに少しでも価値を感じているのであれば、その考えを自分の<ことば>で発信し続けることが必要なのだと思いました。自分の考えたことを発信することによって、それに共感してくれる人がいるかもしれない。また、それが批判であっても、私の経験に何かを感じたからこその批判であって、そこで、さらに考えることによって新たな結論が得られるかもしれません。

こうやって「表現活動」を続けることによって、自分が自由に活動できる場が少しずつ広がっていくのかもしれません。そう考えると「表現活動」というのは、自分の価値を見出し、その価値の範囲を広げていく作業なのかなと思いました。

自分が必死で考えたことが否定されるのは、結構しんどいことではありますが、それでも、自分のテーマは何かを考え、勇気を持って発信することによって、その人の持つテーマが鍛錬され、磨かれていくのかもしれません。

そして、一人一人の「表現活動」が、価値あるものとして尊重されるようになったとき、それぞれの属する社会が、少しずつその人にとって住みやすい場所になっていくのかなと思いました。そういう意味で、「表現活動」は自分自身のためにすることなのだと、自分の中の価値を見出すことなのかと思いました。

こんなふうに師匠の著書をもとに、好き勝手なことを書いていますが、師匠は全く動じることなく、受け止めてくれるだろうなあと感じています。「表現活動」を続け、自ら活動の場を形成してきたその結果だと思いました。こういう自由に発信できる場を醸成してくださったことに感謝しつつ、また「表現活動」をはじめてみようと思いました。

今回も、最後までお読みいただき、ありがとうございました!


共感していただけてうれしいです。未来の言語教育のために、何ができるかを考え、行動していきたいと思います。ありがとうございます!