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結局救いたいのは私自身でしかなかった


「誰か助けて、誰かここから連れ出してほしい」

そんな悲痛な叫びを胸に押し殺して過ごしている子供だった。
どれだけそう強く願っても、何回願っても、手が差し伸べられることはなく、1番辛い時ってひとりなんだな、と悟った。

救いを求めることは、誰かに期待していることなんだ。
相手のいないところに期待するだけ無駄なんだ。
1人で乗り越えていくしかないんだ。

まだ子供で無力だった私は、気持ち丸ごと心の奥底にしまい込んで乗り越えるしかなかったのだと思う。
本当は誰かに「大丈夫だよ」って抱きしめながら言って欲しかっただけなのかもしれない。
抱きしめてもらいながら、大声で泣き叫ぶことができていたら、それだけで救われていたことなのかもしれない。

そして同時に、悲しいのは私だけじゃない。
きょうだいも母も祖父母も悲しんでいるのだから、私ばかり悲しんではいけない、という思い込みができていた。
いつのまにか気丈に振る舞うことを覚え、親族が亡くなったりしても、素直に悲しむことができない性格になってしまった気がする。

心そのものに仮面をつけてしまったから、心の底から喜ぶことも悲しむことも、いつのまにかできなくなってしまったのだと思う。

だから、目の前の人が心の底から嬉しそうにしていたり悲しそうにしたりしていると、なぜか理由のない苛立ちを覚えてしまうようになった。
取り乱してしまってみっともないとか、それくらいに思うようなこともあるくらいだ。

例えばわかりやすいのは目の前にいる子ども。
子供は素直だから、嬉しい時も悲しい時もそれを最大値でそのままぶつけてくる。
そうすると私はすぐに「落ち着きなさい」と嗜めてしまう。
子供の感情のアウトプットを私が受け止めきれなくなってしまうからだ。

本当は、どちらの感情も、黙って受け止めて抱きしめてあげればいいんだってことは頭ではわかっていても、心が抵抗してしまっている。
冒頭で、誰かに抱きしめてもらえていたらと書いたけれど、そこでパッと思い浮かぶのは母の姿だった。
私は母に大丈夫だよって抱きしめてもらいたかっただけなのかもしれない。
そう考えてみると、今までにそんな風に母から抱きしめてもらったことがあっただろうか?とすら思う。

自分がしてもらえなかったことだからだろうか?
だから、素直にやってあげられないのだろうか?
でも、それじゃ、私の悲しみの経験を子どもに負の連鎖として背負わせてしまうだけ。それだけはしたくない。その一念だけでなんとかその場を笑顔でやりこなしているが、子供にとって良い母親である自信は微塵もない。

そう考えてみると、結局目の前にいる子どもは、私でしかないのだということに気づく。
私が助けたいのは、当時誰かに助けて欲しくて仕方がなかった子供の頃の私自身なんだ。
悲しんで苦しんでいた自分を抱きしめて認めてもらいたかっただけのその思いが、今も私の中に眠っている。

そして今になって、自分が産み育てている子供の向こう側に、子供の頃のわたしが現れて必死に助けてと声を上げている気がしてならない。
大人になった私は、必死に手を伸ばして助けようとしている。
なんとかして助けてあげられないかと、私自身を救い出そうとしてもがいている。

誰にも理解されなかった悲しみや苦しみを、今の私が必ず受け止めて認めてあげたいと思う。
だから、もうそこに留まらなくても大丈夫。
今の私が、当時の私自身も癒して、必ず幸せな方向に連れていくから。
もう大丈夫だからね。
今までずっと背負い込んでくれてありがとう。
何も心配しなくていいよ。
私が守ってあげるからね。



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