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私が大変な時に”休め”と言われたら怒る。という話

タイトルの通り、私が忙しく何かに追われて疲れている時に、休んだ方が良いと言われたら怒ると思っている。こんなに大変な日々の中でどこに休む余裕があるんだ。手を止めると、納期が迫ってくる。期限が迫ってくる。人様に迷惑をかける。どうして休めようか、と思う。現実と理想のギャップにイラ立ちを覚える。そのような生活をしたい衝動に駆られ、あれこれ夢を見るが、できないと思っている。または、大変すぎてやる気がでなくなっている。ぐったりしている。その中で休めと言われたら、今休んでいるのだが?と怒る。

私は記事で、休むこと、頭を空っぽにすることを提案している。しかし、火中の私が私の記事を読んだら、正直怒ると思う。そんな理想論、私の生活には通用しない。きっとこの人はお金もあって恵まれた環境にいるのだろうと思う。何か特別できることがあるから、自分とは違う状態でだからこそ言えるのだと。今は自分は取り急ぎ目の前のこの案件を片付けようと躍起になっている。

そのような中で、人から休めと言われたら怒る。私のことを分かっていないと思う。しかし、私は働いて忙しい時に、休むこと、頭を空っぽにすることの大切さをなんとなく肌身で感じていた。

それは、周囲に満たされている人がいたからだ。満たされている人は私と同じような環境、忙しくても休んでいる。そして、ぼーっとしていた。もちろん、すごい集中力と冷静さで仕事をさばいていくのであるが、落ち着いている。何か問題が起これば、すぐに着手して解決するように計画立てて実行するのではなく、何が根本の原因でこうなったのかと、一歩引いて物事を捉える。忙しい時なのに人とケラケラ話して、なんだか楽しそうにしている。余裕がある。

そのような人の共通点は休んでいることだった。何か論理的な能力を身につけて、問題解決を早くしたわけでもない。人の特徴をいち早く分かって、感情にうったえかけるようにしていたわけではない。休んでいて、頭を空っぽにしていた。その結果、自分は大丈夫だと思っていた。安心していた。問題に巻き込まれるということがなかった。物事を体系的に捉えていた。

そのような身近な満たされている人を見ていて、休むことの大切さはなんとなく気づいていた。しかし、自分は反射的に目の前のことに反応して対応していたが。

自分で気がついたことには怒らない。しかし、人に言われれば怒る。私はなんだか毎日大変だ、やる気が出ない、疲れたという人向けに、記事を書いている。これらの記事は”気づくことに繋がる”のでは?と思って書いている。何より自分がこうして書いていることが楽しくてたまらないのだが、同じテーマで角度を変えて書いている。自分と記事のギャップに悩み、怒りを覚える人もいるということを想いつつも書いている。

現実の大変さと楽になりたい、より良くしたいという気持ちに対して、私は共感する。避けがたい困難を乗り切ってきた。だからこそ、そのような人に向けて、今の自分、かつての自分に向けて、メッセージを残している。休むことが遠回りに見えて、一番の近道だと。気づけば、その姿を知れば、近づくことができる。より満たされるようになれる。




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