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ほどほどにできない

ほどほどにできない。何事も追求してしまう。没頭してしまう。側から見れば熱中しているからいいじゃないと思う。本人も周囲よりやることによって、結果がそれなりについてくることもあるので、いいことと思う。しかし、問題がある。没頭するため、寝食を忘れる。トイレにすら行かない。お風呂に行かない。部屋を片付けるなんて一番優先順位は低い。ある程度やると結果も出てくるので、疲れてきたと思っても、それにしがみつく。やってる間に周囲を抜かしていくと思うからだ。時間が惜しい。合理的にやっても限界があるので、睡眠を削るなどして時間を捻出する。寝ない。やったかいあって、結果が出る。急成長する。伸びる。周囲から認められ始める。何が悪いことがあるんだ。自分は誰に迷惑もかけず、自分と向き合っている。一生懸命になって取り組んでいることがある。満足している。もっと高みに行きたいと思う。

そんなとこを続けていると、ぷすんとこれまでの勢いがなくなる瞬間が出てくる。眠さの限界、空腹の限界、体勢の限界、疲労の限界。いずれにせよ、体に限界がくる。そうなれば、休むことに全力を注ぐ。食べる。寝る。とりあえずシャワーを浴びる。それら数少ないことが終わったら、また元の生活に戻る。戦いの場に戻る。

ほどほどにできないことを良いこととすることは多い。人はまぁ他人だし、頑張っているな、意欲的だなと思うが、それを無理に止めようとしない。止められないという方が近い。止めたようなら、攻撃してくる。これまで積み上げた環境を取り上げるな、否定するな、勝手であろうと、自分を守る。

こうなると、本人が気づくのを待つしかない。しかし、本人が気づく時は病院に運ばれる時である。胃に穴が開く、痩せすぎた、太りすぎた、血管がつまった、痛風になったなどである。

こうなる前に気づけなかったのかと周囲は思うだろうが、気づけなかった。ほら、周囲に迷惑をかけるじゃんと言ってくるかもしれないが、それは結果的にである。渦中では別に迷惑なんてかけていなかった。人もついてきていた。結果も出ていた。生きがいだった。生きがいを取り上げるな。だが、体に負担がかかっていたことは事実なので、反省はする。気をつける。しかし、最初のうちはセーブしたり工夫をするが、また同じような状態に戻る。

本人は本当に大変である。自分なりに自分の好きなことを見出して、できることを見出して頑張っただけである。しかし、うまく行かない。どこまでいっても満足しない。満たされない。八方塞がりである。

ほどほどにできないことは、別に悪いことでもない。良いことでもない。しかし、この状態よりも、自分が無理なく、好きなことができて、周囲との関係も良好で、次々に新しい世界にいける状態はある。今のなんとなく疲れたという形を解決する状態はある。

そのためには、囚われをなくすことである。今までの自分は、置かれた状況の中でベストを尽くしてきた。うまくやろうとしてきた。それは今の状態を少しでも良くしようと戦った証であるし、これまでなんとか切り抜けてきた証である。本当に大変だったのだ。避けがたい困難が多くあった。そんな中で、自分の身を守るために、もがいてきたのだ。よくここまで生き抜いた。本当に大変だったと思う。

そんな逆風の中で、囚われができた。それは、こうしなければならない、ああしなければならないという思いである。経験の中で見出してきたその考えは真実である。その時なりの安心するやり方である。

しかし、それにしがみつくことはしなくてもいい。例えるならば、これまでは虐待されてきた。攻撃されてきた。搾取されてきた。そんな困難な中でも、なんとかひとりで生き抜いてきたのだ。虐待される環境に戻る必要はない。むしろ、戻るとまた虐待される。うちのめされる。やる気がなくなる。何度も立ち向かっても、うまくいかないので無気力になる。

虐待されないようにするためには、囚われをなくすことである。囚われをなくすためには、何もしないことである。最初は何もしないことができない。ゆっくりすることができない。とても大きな不安に駆られる。これで良いのかと苦悩する。論理的に考えて、やっぱり行動した方がいいのではないかと思う。しかし、その必要はない。それは、これまで虐待されていたのに、それがないからソワソワしているだけである。いつ攻撃されるかわからないから、身構えているだけである。防衛本能として正しい。警戒するくらい、また攻撃に備えようとするくらい、困難な環境にいただけだ。ひとりでいること、何もしないことで、虐待から逃れられる。

何もしないと、様々な思考が湧いてくる。これまでのこと、これからのこと。あれこれ考える。衝動的な、動きたい気持ちに駆られる。何かしていた方が楽だと感じる。しかし、何かすると、虐待される環境に戻るだけである。それは薄々わかると思う。しかし、何もしないことがその解かと言われれば、その実感はないと思う。何もしないことは辛い。ソワソワする。時間がどんどん過ぎていく。意味のないことのように思う。他にいい手段があるのではないかと思えてくる。

それでも、何もしない、頭と身体をゆっくりとさせることである。頭と身体を空っぽにすることである。どこまでいけば空っぽにすると言う状態か分からない場合は、こちらの記事を参照してほしい。

頭と身体を空っぽにして、囚われがなくなると、意欲が湧いてくる。それはちょっとした興味だ。見返りを求めない素朴な気持ちだ。その意欲にエゴはない。こうしてやろう、あぁしてやろうという思いはない。ただやってみたい、と思う興味である。取り組んでみて下手で、がっかりするかもしれないが、そのままでいい。何かこうできなければならないと思い、学習したり、勉強したり、スキルを手に入れようとしなくていい。気ままにやってみることである。そういったことに取り組むと無理をしない。疲れたらやめる。興味がなくなったらやめる。また気の赴くままに新しいことを始める。何か追求しようとしなくていい。自分の発想のままに試行錯誤するといい。

子供が走り回る時にどうして走りまわっているの?と聞いても、走りたいからとしか返答しようがないように、それがしたいからという理由で取り組むことを続けていると、どんどんユニークになっていく。世でいう個性的という状態となっていく。やってみたことは、個性的となり結果を連れてくる。何事にも追求していた頃と同じような結果、そしてそれよりも大きな結果となる。しかし、その結果は自分がこうしてやろうと思ったものではない。気付いたらそうなっている。自分は十分に休息して、熱中しての繰り返しをしていただけなのに、いつの間にか、結果が出ている。周囲には人が集まっている。認められる。人と良好な関係を築けている。満たされる。そして、人が集まっていたとしても、これまで積み上げたものを置いておいて、また新しいことを始められる。満たされる。


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