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無頓着な人は一緒にいて居心地が良い

世の中には無頓着な人がどれほどいるのだろう?ちなみに、理系の世界には無頓着な人は多いと、30代リケジョの私は思う。

何かプライベートで大変だったんだという旨の話をすると、そうなんだね、それは大変だったね。と事実を受け止めてから、事実を同じ意味の言葉で返す。
ご飯屋さんどこがいい?という話においても、そうねぇ、好きなのでいいよ。とあまり主張しない。本人に好き嫌いがないかと言えば、好き嫌いはあり、むしろ大部分を占めるひとりの時間では何かに熱中している。

話は変わるが、私は熱中と没頭という言葉を使い分けたいと思っている。熱中は休息も取りつつ何かに集中して取り組むことで、没頭は寝食を忘れて何かに集中する取り組むことだと認識している。(辞書では表現は異なるかもしれないが、ニュアンスは同じようなことが書かれていると思う。)
つまり、熱中はバランスが取れた生活の上で成り立っており、没頭は生活に支障をきたす。

無頓着な人は、没頭ではなく熱中している。もし、没頭している人がいたら、おそらく無頓着な人ではなくて、冷酷な人であると思う。無頓着ではない人は、どこか病的で、白黒はっきりしたがり、中庸を取らない。

無頓着な人は、感情の起伏や人の意見で傷つくこともあまりない。感情の起伏がないなんて、人生の幸せを感じられていないではないかと思う人もいるかもしれないが、そうではない。嬉しいといった感情もあるし、傷ついて悲しくなる時もある。事実を事実として認識して、自分はこう感じているなと分析・客観視することで、無頓着でない人よりも深く落ち込んだりすることがない。はしゃいでることもなくて、なんだか機械みたいと思う人もいるかもしれない。物事を一歩引いて捉えてるなんて、と。論理的に物事をさばくことは事実であるが、のめり込んでいないわけではない。むしろ、かなりこめり込んでいる。これがどの程度のめり込んでいるのかと言えば、周囲の音が騒がしくてもそれが聞こえないくらい熱中する。しかし、その間ものめりこんでいることを、俯瞰して捉えており、その熱量をリアクションとして出すことはあまりない。つまり、無頓着な人は、落ち着いている。


お医者さんの友達と話て思うことがある。医者という職業は、色々な人と話すため人を見抜く力が養われている。しかし、色々な人をおおよそどういう人と見抜けても、無頓着な人は少ない。無邪気ではなくどこか冷酷である。医師は元々理系であるのに、無頓着な人が少ないのは、大学入学後の環境にやるもので、ひとりでなにかを探求したりという時間が少ないからではないかと思う(もちろん、試験のためにひとりの時間を取っているが、これは無頓着には繋がらない。無頓着となるには、自分が思いつくままに構想し、思考する時間が必要だ)

また、幼い頃から複数の国を転々としてきた友達を話て思うことは、アイデンティティが弱く、無頓着ではない。(小さいと言った方がいいのだろうか?アイデンティティはある、ないで語られるが、より強弱をつけた形で表現したい)色々なバックグラウンドの人に対応してきているため、サバサバしているが、どこかソワソワしている。落ち着いていない。人の顔色を読んでいる。

無頓着な人は何か好きなことがある。熱中できることのある人は精神的に安定している。その安定は、自分は大丈夫といった根拠のない自信につながり、やること全てを落ち着いて取り組むことに繋がる。落ち着いて取り組むことは、着実にその人の中に気付きを蓄積し、穏やかで少しずつでも変化がある日常を生み出す。

無頓着な人は一緒にいて居心地がいい。何か話すにしても、本人なりの意見を持っていて、その解釈を聞くのは楽しい。無頓着だからといって、意見がないわけではない。しかし、一方的な批判やYES、NOといった白黒つけた回答はあまりしない。人の顔色を伺わないし、どっしりと堂々としている。

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