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突出している人

平日は朝5時から夜の1時まで働く人がいる。自分で会社を立てて回している。メンバーも多くその管理する幅も広い。そのような人の休日はアクティブだ。このような人の職種はなぜか経営者や医者、弁護士といった形が多い。そのような人の中で登山に行く人がいる。仕事終わりに夜行バスに乗り込んで、そのまま朝方に山の麓に着く。そこから山へと登りお昼前には登頂する。登った先では山の峰に沿って歩く。そうして事前に決めておいた宿泊場所にテントを立てて、ご飯を作りその日を終える。次の日は日出と伴に下山して再び平日の忙しい日常に戻る。山とは限らないが、山に似たようなレジャーやランニング、ボディメイクなど何かに打ち込む”突出している人”というのが世の中にはいる

このような人に疲れないのかと尋ねると、確かに疲れたりはするが、身体が勝手に動いていると話す。その目はキラキラしていて子供のようだ。そのメリハリがついている姿に周囲の人は惹かれる。仕事も家庭もうまく回している姿に憧れを覚える。このような人は、私から言わせれば、不安な人から安心している人へと強制的にシフトした人だ。忙しい生活の中に頭を空っぽにするイベントを組み込むことで成り立っている人だ。このような人を皆が皆真似できるわけではない。その姿を真似ようとする時点でその地点に到達することはない。突出している人となったのは、自身の生活の中で自分が心地よいと感じるものを取捨選択し、利便性や合理的な方法を築き上げた一つの形なのだ。このような形を周囲は天才と呼んだりするが、別に天才であるわけではない。確かに元から感性が鋭いや記憶力が抜群に良いなどある。その元々できることを広げてきただけなのだ。追求した形なのだ。その人の赤ちゃんの頃、子供の頃まで追っていくと、別に普通である。成長する中で今の形が形成されていっただけである。

もし、突出している人になりたいと思う場合は、自分の生活の無駄を削ってみることだ。この無駄を削るには少しテクニックがいる。それは自分の中の感覚を細かに追えることが必要である。例えば、机にカレンダーをおいていると気が散る、音楽を聞くと気が散るなど日頃何気なくやっていることが本当に自分にとって有効なことなのか省みる必要がある。最初は荒削りなことしかできない。部屋をきれいにする、モノを捨てる、ひとりになってみる、とその手段は様々である。その自分がとった全ての行動について、後から思い返して、あれは必要だな、不必要だなと取捨選択していくのだ。この取捨選択には、集中するための環境を構築することだけではない。自身がリラックスする方向にも最適化を進める。するといつの間にか突出している人となっている。他の人が真似しようにも真似できない、自身のスタイルというものが完成される。これまでは罪悪感や自己嫌悪にさいなまれることがあった自身から、そのようなことがないに等しい安心した人へと変化している。

ただ、筆者が突出している人に一つ言及するならば、多くの人はやってみても不安を増大させるだけだ。さらに仮面をつけるようになるだけだ。どんどんと生きずらくなる。突出している人も安心した人に見えるが、ちょっとしたきっかけですぐに不安な人へと変わる。ギリギリのバランスの上でそれは成り立っている。突出している人もひとつの人のあり方であるが、これを目指さなくていい。口を閉じること、何もしないこと、頭を空っぽにすること。これが安心する人になるための掛橋である。子供のように無邪気に、毎日が色めきだって楽しく、より満たされるようになるための鍵である。

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