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M16編成─あの日の記憶

この記事には東日本大震災に関する内容を含みます。閲覧の際にはご留意ください。

平成23年3月11日14時46分──。三陸沖で巨大地震が発生、津波が沿岸に押し寄せた。
今年の3月で『東日本大震災』から13年を迎え、東北の街の風景は大きく変わりつつある。そんな中で、あの日の〝生き証人〟ともいえる車両が走っていることをご存知だろうか。


205系3100代

仙石線の主力車両、205系3100代。山手線で活躍していた205系の中間車を先頭車化改造して4連に編成した上で仙台電車区へと転入した。東北地方であるが仙石線は直流電化であったため、直流電車の205系が転用できたのである。

欠けた2編成

仙石線の205系は編成番号に「M」を冠し、M1編成からM19編成まで存在する。しかし、現在の編成数は17編成となっている。現在、M7編成M9編成は廃籍されている。この背景には東日本大震災がある。
仙石線は途中区間、松島を臨む地域は特に沿岸に近いところを走行する。この地域は津波の被害を受けた。

M7編成

M7編成は2011年3月11日14:46頃、石巻駅に停車した状態であった。地震後、石巻市にも大津波警報が発令されたため、乗客乗員の避難措置を執る。その後、石巻駅にも津波が到達し、停車中だったM7編成は冠水した。冠水によってもちろん自走は不可となり、しばらくは放置されていたものの、搬出が始まると神奈川県逗子にある総合車両製作所に陸送された。速やかに解体…とはならず、総合車両製作所内で復旧に向けた作業が行われていたようである(大破されることはなく、浸水被害のみであったため)。床下機器が使用不可となった車両が総合車両製作所に運ばれたことで、当時はVVVF化されるのではないかという噂も流れ、〝奇跡の再起〟への期待が膨らんでいた。

その期待は突如として砕けることになる。M7編成は車両銘板等を全て撤去した状態で解体施設へと陸送された。その解体施設は

「北館林解体線」

北館林解体線は東武鉄道の車両を解体する施設で、JRの車両が入線することは大変珍しいことであった。長野や郡山などで解体せず、東武鉄道の施設で解体した真相は分からずままである。このとき既に2015年、震災から4年が経過していた。

M9編成

津波被害の大きかった「野蒜」という駅がある。上り列車の野蒜駅発車時刻は14:45であり、地震の直前だだった。あおば通駅行の上り列車として野蒜駅を発車したのがM9編成である。
発車から1分18秒後、緊急地震速報を受信し緊急停車、大津波警報発令のため乗員乗客は車両を置いて避難となった(付近の小学校へ避難したものの、小学校にも津波が到達し、数名が犠牲となった)。M9編成が停車した場所には津波が到達し、車両は流され脱線転覆した。

被災したM9編成(画像はWikipediaより)

M9編成の残骸は震災後、現地にて解体処分となっており、震災をもって廃籍となった。なお、205-3100系としては初の廃籍となる。

M16編成

運命を分けた上下線

前項で地震直前、野蒜駅は上下線が同時刻発車だったと記載した。上り普通列車 あおば通行はM9編成であったが、もう一方の下り快速列車 石巻行として運転していたのがM16編成である。野蒜駅を発車直後、緊急地震速報を受信したM16編成は地震によって脱線し停車。自走不可となったため、乗務員が避難誘導を始めた。ところが、乗客が「ここは高台だから、このままここに居た方が安全」と乗務員に伝え、乗客乗員とM16編成は停車した場所で留まる。乗客の言うとおり、津波は手前までしか到達せず、流されることはなかった。

M16編成は今──

津波を危機一髪免れたM16編成は、今も仙石線で活躍を続けている。沿岸を走行していた3列車のなかで、唯一残ったM16編成はまさに津波の〝生き証人〟だ。

M16編成(2024年 筆者撮影)

あとがき

M16編成が津波から免れたことは、まさに〝奇跡〟である。震災を語り継ぐ上で被害や、犠牲者など、「悲劇」を伝えることも勿論大切なことである。しかし、M16編成のような「奇跡的な出来事」も語り継ぐことは大切なことだと、私は考える。

M16編成は一見すると「何も変哲もない電車」である。外見も他の編成と変わった点はなく、震災時のことが特別書かれているということもない。この「奇跡」が語り継がれていくことで、少し違った側面から、「あの日の記憶」を残し続けることができるのではないかと思う。

改めて、東日本大震災によって犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地の再興を心より祈願する。

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