ディズニーランド嫌いな俺のまんまで生きてちゃだめですか

子どもの頃地区会か何かで行った記憶があるディズニーランド。集団行動が苦手で親密な友人もいなかった自分はいい思い出が作れなかった。バスを降りて人を待つのも嫌で単身乗り込み、携帯電話なんかも持っていなかったから誰とも合流できず、並ぶのが嫌でアトラクションにもろくに乗れず、低い背丈のせいで迷子と間違われ(間違いではないだろうけれど一人で平気だったから余計なお世話だとおもっ…思ってなかった。面白がっていた。だって思い通りの反応するんだもんね。自分が年より幼く見られることが周囲を意のままにしているような全能感につながってたの未だに時々ある感覚だけど気持ち悪いよね。)散々だった。
ディズニーの映画も大して見ていない。ピーターパンとライオンキングは家にDVDがあったと思うけれど内容はそんなに記憶にない。
とにかく、ディズニー作品と縁が遠かった。

そんな自分が好きだった。
正確には好きとかそういうのではない。世間大衆が褒めそやすものに疎い自分というブランディングに執着がある。話題の合わない特異性を個性として好んでいた。自分を変な生き物と定義すれば疎外感とも折り合いをつけることができた。ディズニーがわからないことを「普通の外」にいる自分の外装の一部として利用した。

大人になって何となく仲良く話せる他人ができて、その人たちがディズニーが好きだという。共感と肯定が大事なので、楽しそうに話を聞く。いつかみんなで行きたいねと彼らはいう。曖昧に合わせる。
本当は行きたくなどない。楽しそうに語る他人を見ても、見どころを解説してもらっても、私はディズニーランドに大して魅力を感じなかった。ディズニーランドにトラウマのある女。その自分でいることのほうが大事で、今更楽しい記憶なんて増やしたくもないのだ。
ディズニーランドは遠い。そして高い。同じ労力と資金を投入するならもっと他のことがいい。なのに友達を継続するには無理して合わせて素敵だねと言い続け、一緒に行くよねと誘いをかけられる側になるしかない。嫌だ。行きたくない。そう言うわけには行かないのだ。辛い、なんて辛いのだろう。

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