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レッセフェール・・パラノイア

企画

資本主義が実体化していった19世紀初頭というのは、産業革命によって勢力を増す資本家が国家による支配から解放されることを望んだ時代だった。イギリス功利主義の創始者であるジェレミ・ベンサムは「社会の幸福とは、社会を構成する個々人の幸福の総和である。個々人はなにが己に快楽をもたらすか知っているのであるから、アダムスミスの自利選択の原理によって、個々人はただ放任されていれば、社会の幸福に資する」とし、政府による個々人の活動への介入を抑制すべきと考え、「最良の政府は最小の政府である」とした。契約の自由に基づく自由放任《レッセフェール》は資本主義の基礎となった。


時は下り、王権も貴族もない、神すら死に絶えた21世紀。人類はかりそめとはいえ、世界からの自由を手に入れた。不可視管理社会はたった一つの真実の世界から人々を解放し、それぞれが望む自由な世界で生きることを可能にした。それまでの狭く束縛された自由ではなく、深く直感的な自由だ。しかし2036年に起きた不運な事故によって、人々は「この自由は永遠には続かないのでは」と思わされることになった。


資本主義が旧支配勢力を打倒すると、資本家と労働者階級との対立は決定的になった。資本主義というエンジンによって全体的な経済は強力に推進されてはいたが、その前進の中では資本家と労働者階級との格差が開いていたからだ。資本家への反感は社会主義を、やがて共産主義を生んだ。国家の自由放任主義的態度が必ずしも万人の幸福に繋がらないことを批判した。ここでの幸福は、計算可能ゆえに交換可能な富の量ではなく、個々人の主観的な優越感/劣等感に他ならない。他者に対する偏執的視線が、量的・質的・客観的な視野を塞いでしまった。


2036年以前の不可視管理社会では、行政システムが個々人の快不快を学習することで社会全体にとって適切と考えられる不可視化処理を行なっていた。何かをでっちあげることは難しくても、隠すことは容易だ。人が不快なものからストレスを受け幸福を失うのであれば、不快なものを感じなければ少なくとも幸福を失うことはないという理屈だ。しかし2036年以降、人々はその不可視化された壁の向こう側に多くの不快を直感してしまう。それが実際に存在するか否かには意味がない。人々の心の中に不快の原因が生まれたからだ。世界に対する偏執的視線は、行政システムが手を出せない領域で不可視管理社会を揺るがしてしまった。


204X年、巷でにわかに注目を集め始めた精神疾患がある。その名は「レッセフェール パラノイア」。日本語でいえば「自由放任への偏執病」。その主な症状は、自由に対する強烈な猜疑心や被支配妄想。以前から症例はあったとも、近年新しく現れたとも言われ、精神病理の専門家の間でも議論が分かれている。ある医者は潜在患者数は50万人と推定し、また年々急速に増えていると指摘している。なぜこの病が注目を集めるのか? それは、自由が人々の心の中、自覚のもとにしか存在しないものだからだ。人々は自由であるという合意を社会が失った時、もはやそこに自由は存在しない。21世紀のテクノロジーの結晶として完成した真に自由な社会が、たったの20年も経たずに、人々の心の持ちようが原因で崩壊の瀬戸際に立たされているからだ。


DYRによる漫画『レッセフェール・・パラノイア』は、SF20XXシリーズの外伝的作品だ。時系列的にはSF2036とSF2049の間に位置し、社会の混乱がどのように広がったかを2人の女性のごく狭い視野から描写する。わたしの自由は、あなたの自由。けれど、わたしの不自由は、わたしだけのもの。彼はあなたを縛ったの? けれどわたしを縛ることはしなかった。束縛は愛。わたしを繋ぎ止めて。寄る辺を。あなたには見えない。

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