ゲームにイージーは必要か?問題と争点の誤解
事の起こりはこれ。
「イージーは必要か?」という題目が拡散され、必要性について語るポストが多く見られる。
しかし、争点はそこじゃないと思う。
つまり、イージーの必要性=多様なユーザーを楽しませたいという点は理解している。
理解している上で、そのやり方が良くないゲームが多いという話なのだ。
ゲームメカニクスを捨てているイージーは良いイージーなのか?
ゲームメカニクスを維持したままイージーを搭載できるならその方が良いのでは?
これが争点である。
イージーの存在自体は否定していない。
この方は解決策として、レベル上げ等の時間を任意に短縮可能とするのはどうかと提案している。
私はこの案がすべてを解決するとまでは思わないが、着眼点は合っていると思う。
ゲームメカニクスという質を保持したまま、時間という量を減らす。
これが良いイージーだと思う。
ここで視点を変える。
このイージー問題について「私はイージーを選ばないから関係ない」と思っている方がいるかもしれない。
それがそうでもないのだ。
イージーとノーマルの体験の差が大きければ大きいほど、レビュー内容の差も大きくなるからだ。
今時、レビューを一切見ない人がいるだろうか?
いや、いるかもしれない。いるかもしれないが、そんな人はこんなnote読まん。このnoteを読んでる時点でレビューを見る習慣があるはずだ。
レビューを読んでみたら自分の体験とずいぶん違う……その原因は難易度設定かもしれないのだ。
極端な言い方をすれば、難易度設定があるタイトルよりも、難易度設定がないタイトルのほうがレビューを信用できるということだ。
イージーの体験の差が小さくなることは、レビューを元にやりたいゲームを決める人にもメリットがある。
ここまで良いイージーがあるべきだという話をしてきたが、反論が2つは思いつく。
ゲームメカニクスに興味ないからクリアさせてほしい
ゲームメカニクスを理解されなくてもいいから沢山売りたい
これまで、ゲームメカニクスは体験できる方が良いという前提を押し付けてきた。では、そもそもそこが違うとどうなるか。
どうしようもないかな!
最早ゲームとはどうあるべきかという哲学の問題である。
論理では説明できないのでどうしようもないのだ。
ひとまず結論として私が言いたいことは、イージーの必要性という点で止まらず、良いイージー/悪いイージーについて考えてみてほしいということである。
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