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芥川龍之介「鼻」を宇治拾遺物語と比べました

芥川龍之介の「鼻」は今昔物語や宇治拾遺物語に載っている話を題材にした作品のようです。

気になったので、宇治拾遺物語 巻第二 七「鼻長キ僧ノ事」と比較してみました。

比べたのは内供の人物像とストーリーです。

1、内供の人物像 比較

まず共通する部分は、鼻の長い僧が出てくることでした。

芥川の鼻では「禅智内供」、宇治拾遺物語では「禅珍内供」という名前です。どちらも池の尾という場所に住んでいます。

①鼻の様子
どちらも5、6寸(15~18cmほど)で、長さはあごの下まであります。

「宇治拾遺」赤紫色。大きな蜜柑の皮のように粒だってふくれている。かゆい。
「鼻」元から先まで同じように太い。細長い腸詰めのような物。

②性格
「宇治拾遺」
・鼻を持ち上げるときに上手く扱わないと、機嫌を悪くする。

「鼻」
・長い鼻を苦に病んでいる。(自尊心が傷つけられるため)
・気にしていることを人に知られたくない。
・他人の鼻を絶えず気にする。(自分のような鼻を見つけて安心したいから)


「宇治拾遺」には内供が鼻を気にする描写がなく、どう思っているのかは分かりませんでした。
(読んだ感じ、さほど気にしていないようにも感じられました。)


2、ストーリー 比較

順番が入れ替わっていたり、それぞれにしかないところもありました。

①宇治拾遺物語  高貴な内供、ギャップの面白さ。
以下宇治拾遺物語のみの描写です。

◆内供について
内供は加持祈祷をよく習得して長年行っている、すぐれた人物で、富も持っていました。
内供がいる寺は、荒れたところもない寺で、僧がたくさん住んでいます。辺りの里もにぎわっていました。
そんな僧が、食事の時には長い鼻を弟子に持ち上げさせていました。
ある時、いつもの弟子の代わりに持ち上げていた童が、くしゃみの拍子に鼻を粥の中へ落としたとき、内供は大変怒ります。

内供「私ではない高貴な人のお鼻を持ち上げるときは、こうはしないだろう。ばかもの!」
弟子「他にそんな鼻の人がいれば持ち上げに行きますが…。ばかなことをおっしゃる方だ」


この内供の台詞は、芥川の「絶えず他人の鼻を気にする内供」からは出てこなさそうな台詞です。

優れた人物である内供が長い鼻を持ち、最後の弟子との会話によって周りからも笑われてしまうところが、落差があって面白かったです。


②芥川龍之介「鼻」  内供の内面に焦点をあてる。
以下芥川龍之介「鼻」のみの描写です。

◆内供が自分の鼻を苦に病む。

◆順番の入れ替わり
「宇治拾遺」では鼻を短くする方法は分かっていましたが、2、3日で元に戻るので、鼻の長い期間も多くあった、となっています。
芥川「鼻」の方では、内供は鼻を短くする方法を初めは知りません。そこで色々な方法を試す話が加わっています。

内供が初めは治し方を知らない事、鼻を気にする描写があることで、「宇治」と比べて内供は鼻が短くなることにより強い望みをかけているように感じられました。

そしてやっと念願が叶った…!!と思ったところで
◆鼻が短くなった後、人に鼻を見て笑われる。

本文では「傍観者の利己主義」と書かれていました。
他人の不幸に同情するが、その人が不幸を切り抜けると物足りなく感じる、しまいにある敵意を抱くということだそうです。

上手くいってそうな人、成功した人をみて、もやもやする感じでしょうか。
内供は人から短くなった鼻を笑われ、しだいに機嫌も悪くなっていきます。
その後、元の長い鼻に戻るとはればれした気持ちになった。そうです。
「宇治拾遺」に比べて気持ちの上がり下がりの変化が細かく書かれている印象でした。


芥川龍之介の「鼻」は、「宇治拾遺物語」の話が生かされつつも、内供の内面や「傍観者の利己主義」といった内容が加わり、より人の心の動きに焦点をあてた作品となっていると感じました。


(参照)中島悦次校注『宇治拾遺物語』(角川ソフィア文庫)

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