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アスタラビスタ 8話part1

 深夜、寝苦しさで目が覚めた。何か悪い夢を見たのだと思う。だが、その夢が何だったのか、思い出すことはできなかった。
 ただ涙が溢れてきた。なぜ自分がここにいるのか。生きているのか。全てを否定したくなった。
 同時に、言い表せないほどの恐怖が襲ってきた。今後、自分はどうなるのか。独りぼっちになってしまうのか。
雅臣や清水、圭がいるというのに、今の私には彼らも「何の保証もしてくれない人間」に見えていた。
 私は、しばらく使わずに済んでいた、抗不安薬に手を伸ばした。枕元に置いたまま、存在さえも忘れかけていたそれに、私は再びすがりつこうとしていた。
 ふと、伸ばした手を止める。「あぁ、ダメだ」と思った。雅臣のことを思い出したのだ。彼は私が薬を飲まなくなったことを、喜んでくれていた。彼の顔が、頭の中に浮かんだのだ。あんなに喜んでくれたのに、私がまた薬を飲んでしまっては、彼を裏切ったことになってしまう。
 けれど、私の目からは、ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。
 どうしてだろう。どうして、涙が溢れるのだろう。
 きっと、私は今一人だから、涙が溢れるのだ。寂しいのだ。苦しいのだ。
 そう。寂しい。苦しい。それらをまとめると、私の求めるものはたった一つの答えに辿り着く。
 誰でもいいから、愛してほしい。
 恐ろしい感情だと思う。誰でもいいだなんて。でも、それくらい私は寂しかった。突然一人になるということは、ぽっかり心に穴が空くことだ。それを埋めるためには、なんでもいいから、そこに埋められるものを探そうとする。
 一時的なものだ。落ち着けば治る。
けれど辛い。薬を飲んでしまおうか。

 迷った私は、携帯を手に取った。暗い部屋が、画面の光で僅かに青白くなる。上がる息で、震える指で、私は雅臣の番号へと電話をかけた。
 深夜だということも理解している。この前のように、清水が電話に出る可能性だってあった。だが、雅臣は清水と交代で睡眠を取っていると言っていたし、それに雅臣は深夜担当だと言っていた。
 耳に携帯電話を当てる。呼び出し音がすぐに切れ、彼の少し擦れた声が聞こえた。
「もしもし」
 その声を聞いただけで、私の心は安心で満たされた。入らなかった空気が、肺の奥まで入っていく感覚がした。


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「雅臣さん?」
 声を聞けば分かるというのに、私は弱々しい声で尋ねた。
「そうだよ」
 電話の向こう側でくすりと笑う彼の声がした。それにつられて、私も鼻水をすすり、笑ってしまった。
 だが電話の向こうの雅臣の笑い声は、私が笑った途端に止み、沈黙が暫く流れた。
「お前、泣いてたのか?」
 鼻水をすすった音で私が泣いていたのだと、雅臣に勘づかれた。まさか気づかれると思っていなかった私は、彼の問いに戸惑い、はぐらかそうと笑い声を聞かせてみせた。だが、すぐに彼に嘘は通用しないと思い、本当のことを話した。
「なんだか、怖い夢を見たんです。なんの夢だったのかは分からないんですけど、たぶん、こんな気持ちになるのは、昔の頃の夢を見たからだと思います。不安で怖くて、薬、飲もうかと思ったんですけど、でも……」
「昔の夢って、前の彼氏のか?」
 雅臣が、私の過去の彼のことについて、直接話題に出したのは、記憶にある限りなかった。初めてだった。
「たぶん違います。それよりもっと前の……」
 私は、どんな夢を見たのか、覚えてはいない。でも、こんなに気持ちが苦しくなる過去の夢には、おおよそ見当がついていた。
「もっと前?」
 雅臣の擦れた声が心地よくて、私は思わずため口をきいた。
「ううん、もっと前。ずっと昔の」
 でも今はもう、そんなのはどうでもよくなった。心地いい。彼の声を聞いていると、安心する。さっきの不安が、恐怖が嘘のようだ。気分がすごくいい。
「眠れなくても、少し横になった方がいい」
 彼の言葉に、私は静かに「うん」と答えると、携帯を耳に当てたまま、ベッドに再び横になった。
「紅羽、明日時間あるか?」
 咄嗟に、私は稽古のことだと思い、「あります」と答えた。
「じゃ、一緒に出かけよう」
 その言葉に、私は驚いて、「え?」と疑問の声を上げた。
「なんだよ。俺といる理由は稽古をするためだけかよ」
 電話の向こうで、彼が不機嫌そうな声を上げた。別にそんなことは思っていない。だが、彼とどこかに出かけるという考えは、私の中ではなかった。雅臣と一緒にいるとしたら、稽古をしに行くか、近くの河原を一緒に走るか、彼の部屋で清水や圭たちと会うか。その帰りに送ってもらうか。それくらいしかなかった。彼と一緒にどこかへ出掛けようと思ったことなど、一度もない。
「別に、そんなことは……。でも雅臣さん、昼間は辛いんじゃないですか?」
 はっと思った。雅臣は昼夜逆転した生活を送っていると、私は清水から聞いた。雅臣から直接聞いたことではない。
「なんだ。お前知ってたのか」
 清水から聞いたことがばれて、清水に雅臣の身体提供者に誘われたことがばれたらどうしよう。いや、一層のこと、雅臣に話した方がいいのかもしれない。その方が、私の心は軽くなる。だがもし、私は雅臣に話したことが清水にばれたら、清水に何をされるか分からないような気がした。清水が恐ろしいことをしてくるとは思わないが、彼は雅臣ほど、私に対して優しくはない。彼にとって一番は、雅臣なのだから。
「別に大丈夫だ。昼間活動したって、めったに仕事がないからな。それに俺、ショートスリーパーだから」
 めったに仕事がないと、胸を張って主張するのは、社会人としてどうかと思ったが、少し面白かった。
「確かに。いっつも家にいますもんね」
 彼の言葉に同意すると、彼は笑いながら「言ってんなよ」と私に囁いた。
「雅臣さん、何してたんですか?」
 彼のことが気になって尋ねると、雅臣は「資料整理してた」と答えた。どうやら以前対処した事案の報告書を作っていたらしい。私にはなんのことだかさっぱり分からなかったが。
「また眠れそうか?」
 心配そうな声で雅臣が私に尋ねてきたが、私は欲張って、「何かお話して」と言った。私は彼に依存した。彼に愛されているような錯覚を楽しんでいた。
 彼はたくさん話をしてくれた。私はまったく、その話の内容を理解しようとはしていなかった。ただ、「うん」や「へぇ」などと空返事をして、彼の声を聞くことを楽しんでいた。
 やがてうとうとし始め、彼の言葉に対する返事も、曖昧になってきた。脳のまだ起きている部分で、「一体、私はなんて馬鹿なことをしているのだろう」と思ったが、幸せだったことは間違いなかった。
 最後、私が眠る直前、彼が優しく「おやすみ」と言った声が聞こえた。
 たとえ錯覚だったとしても、私は愛されている気がして、幸せだった。

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