思考のスタディ:不安定性と変容

*このnoteはまだわからないことをとりあえず書いてみる用のnoteです。コメントなど、なんらかの形で感じたこと、思ったことを届けて頂けるとより嬉しいです。

自分の中でも、かなり重要で探求していかなければならないと思っているテーマが「変容性」(Transformativity、一旦仮訳で)。

これは色々な領域で探求されてきたワードだと思っていて、とりあえず今見えているところでいうと、1)意識変容→行動変容→社会変容というプロセスを辿る「心理学」や「公衆衛生」のアプローチっていう話、2)組織論とかの文脈で語られるチェンジ・エージェント(変化のエージェント)論であったり、あるいはキャリア論のPlanned Happenstance(計画的偶発性理論)みたいな話、3)もっと直接的にSocial DesignやSocial Innovation論、持続可能性への変容とかの文脈で語られてきたいかに社会を変容させるかみたいな話、とかが主にありそうな気がしている。

ただ、なんとなく個人的に重要だと思っているのが、これまで微妙に触れ続けてきた「ゆるさ」「さまよい」「融解」「寛容」「多様性」とかそのあたりから始まる大きな概念がありそうな気がしていて、そのあたりに埋もれて見えなくなっている変容性を取り出してみたいと考えている。

ここでおそらくキーになりそうだと思っているのが、ヘテロトピア(フーコー→ソジャ)、サードプレイス(レイ・オルデンバーグ)、サードスペース(ソジャ)あたりの空間論的な系譜にあるのかな〜とか、あるいはDesign Activismになにかがありそうかな〜、およびGennepやヴィクター・ターナーが発展させてきた「Liminality」やイニシエーション、演劇あたりに何かがあるのかな〜っていう気がしている。

簡単に言うならば、現状の秩序に対して、それらに対する「意味不明性」を担保することが、無限の秩序の根のための温床を提供できるんじゃないかと考えている。

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社会の変え方の4分類

その話をするために、ちょっとした模式図を持ち出してみよう。

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これは、社会変化のための4つの形態、その仮説である。(森作成)

1. Better-:向上、課題解決

現状の秩序系に対して、いわゆる「課題解決」をする、よりよい現状を目指す方法。困っている人の課題を解決してあげたり。不満を取り除いてあげたりする。ちょっと読み込んでいないのでミスってたら申し訳ないが、これはFuad-Lukeが提唱した言葉では「Agonism」にあたると思われる。

* Fuad-Luke, A., Hirscher, A. L., & Moebus, K. (2015). Agents of Alternative. Re-designing our realities. Berlin: AoA.

2. Anti-:反-秩序

一方で、既存の秩序系全体をごっそりとすげ替え、「全く別の秩序」を打ち立てようとする動きがある。これはより革命的だ。いわゆるアクティビズムといった動きにはこうした響きがある。ように思われる。ヒッピー運動など、1950-60年代にあった動きには、おそらくこうした感覚があったのではないか。上記Fuad-Lukeの言葉でいえば「Antagonism」にあたる。と思う。

3. Another-:異-秩序(他-秩序)

既存の秩序を否定したり、革命を起こしたりするのではなく、距離をとりつつ、新しい秩序、新しい正解、新しい常識を「増加」させていくことで、いわば秩序系そのものを相対化させていこうとする動きがこれだ。反-秩序が既存の秩序系の破壊と新しい秩序の屹立を生むのに対し、異-秩序は既存の秩序が気づかない間に(あるいは気づいていながらも抵抗できない間に)増殖しながら、「もう一つの正解」をつくることで、絶対的正解の絶対性を解体しようとする。

しかしながら、既存の秩序系を破壊しないということはいわば、ここではシステム基盤としてのインフラストラクチャー(Star and Ruhleder 1996) を共有している、ということでもあるのかもしれない。それが、ここに書いたような真の意味で異-秩序を展開させ、多元性を花開かせることが可能なのかはわからない。

とはいえ、ポストモダニズム論的、多元論的な感覚はおそらくこちらに近い。すなわち、彼らが目指しているのは「world many world fit(多様な世界が適合できる世界)」なのだ―個人的にはEscobarが使ったこの表現は、どちらにせよ大きな全体を持つことを強く主張しているという点で極めてスピノザ的汎神論でありあまり好きではないが、しかしながら、このような多元系世界が実際には系を交差するためのコミュニケーション規範(e.g. 英語や国際裁判所)などを必要としてしまうという意味では、まさにこのような逃れ得ぬ(植民地化性の高い)インフラストラクチャーに頼らざるを得ないことは確かだな、と思う。

4. Non-:非-秩序

今回特に取り上げたいと思っているのはここで、いわばここでは、「秩序系というものそのものを相対化する」ような動きを指す。それは難しく言わなくてもよくて、これまでの常識とか、あるいは別の常識とか、そういう依って立つような芯みたいなもの自体を食らうような状態、極めて簡潔に言えば「わけわからん」をつくることがこの非-秩序にあたる。

わけわからん性は、人間の恐怖そのものであって、それは常に秩序を構成しようとする。それをなんらかの形式で拒否し続けることで、いわばGennepが定義づけたようなLiminalityの一時性 Temporality を、Harveyの言う空間的固定 Spatial Fix として空間化させることができるのではないか。超簡単に言うと、「わけわからん、という状態が続くような場づくり」ってのは可能なのではないか、と思っている。

それはしかし、必ずなんらかの秩序へと向かう。その意味で「結果」そのものを見ると、それは既存秩序に取り込まれているように見えたり、あるいは反-秩序を起こそうとして失敗しているように見えたり、あるいは別の世界を社会に屹立することに成功していたりするだろう。しかしその本質はそこにあるのではなく、全く意味わからん状態が生まれるためのゆりかごを社会のなかに定義することにある。MarkussenはそれをImpure Politicsと呼んでいる。たぶん。なぜなら不純だからだ、それは。意味不明さからは、常に何が出てくるかわからない。それは極めてアナーキーで、極めて政治的で、極めて不純なのだ。

これはいわば、既存の二元論(特に1と2の反駁)をいわば相対化しあざ笑うようなアプローチでもあると思う。つまり、秩序系の中で既存の秩序に対して反や他-秩序を形成していこうとする動きに対して、非-秩序は秩序ではない(結果的にそれを生み出しているが―少なくとも今は)。であるがゆえに、それは既存の二元論を乗り越える可能性を持つ。(そしてそれは同時に、その二元論的思考の"柔軟さ"ゆえに、いわば「既存系の秩序」と「非-秩序」という二元論に回収されるという受難を当然携えている。その二元論の強かさには閉口するしかない)

タイトルに書いた「不安定性と変容」と言っているのはその意味で、不確かで、不安定で、わけわからん状態の中から、何かしら、全く想定しなかった変容が生まれうる、そういうカオスをいかに抱擁できるか、ということを私たちは問うていくべきだと思っている。

いずれにせよ、Guy Julierが指摘するように、あるいはMark Fisherが自分の命を経つほどに、「現状」の秩序のその柔軟性は厄介で、いわば何をしても"喰われる"状態にあるといえる。そのような柔軟性を食いきれる新しい何かがあるかどうかはわからないが、いずれの手も僕たちは取り続けていくべきで(僕は個人的な好みから反-の態度はとらないつもりだが)、そして全く意味のわからない解決策、あるいは意味のわからないなにか、へと導きかねないところに、あるいはその空間自体の意味不明さに対して、4の「非-秩序」のアプローチは気に入っている、というわけだ。

既存のリミノイドと、変容性リミノイド

さて、このような「非-秩序」を空間的固定化したリミノイド Liminoid が、いわばここで「うちのシェアハウス」だと言えるのではないか、を考えている。これはまだ極めてナイーヴな議論だが、ここではどこまでも仮説として述べ続けてみたい。

まずこうした空間を具体的に考えてみる。「不安定で」「わけわからん」「なんでも起こりうる=何にでもなれる(なりかわれる)可能性がある」といった特徴を例えば抽出してみると、いくつかの具体的な空間が思い浮かぶ。それを仮説的に、一時的 - 長期的、閉鎖系 - 開放系の2軸で整理したものが以下である。

名称未設定-2

こうしてみると、現代において儀式はその力をだいぶ衰退させ、むしろ開放系に移行しつつあるとはいえ、その名残りが今も多くの空間に発見されることがわかる。例えばハロウィンなどはリミノイドの好例だ。すなわちそこでは、仮装を通じて「誰もが誰もになれる可能性を持つ」のであり、実際に顔などが見えない状態になり、そこで彼らは世界に対して他者として―認知されない存在として、いわば全ての可能性にひらかれている。当然、そのような空間は一時的であるからこそ成立しているという側面も指摘できるだろう―ハロウィンは一時的であるからこそ、ヘテロトピア的に、誰もが"非日常性"に浸ることができる。

一方でヒッピー的空間やクラブなど、そもそもの性質が一般に排他系であることを利用して、別の秩序を生む可能性を生み出している。これがオープンであるという批判は可能で、特に日本ではクラブは人を選ぶが、現在留学しながら思うのは、クラブというのは人を選ぶ空間ではないのでなということ(当然嫌いな人もいるだろうが、日本のそれほどではないと感じる)。いずれにせよ、それらは閉鎖系になることで、不安定性の中で、ここでは非-秩序というよりも、異-秩序を成立させている、あるいはそちらに寄っていく性質がある、と言えるだろうか?

それに対して、ポスト・ポストモダニズム的に仮設されつつある(と思う)のが右上の軸、長期的で開放系の空間である。鳥取の湯梨浜にある「汽水空港」の森さんがこんなことを言っていた。「僕が生まれていたのが3,40年早かったら、たぶんヒッピーだったと思う」。でも、いまは3,40年前ではないのだ。だから彼は、例えば自民党支持の地域のおじいちゃんと話をしてみたり、Whole Crisis Catalogを作って実際に議員に届けたりといった活動を通じて、いわば「既存秩序系のなかに立つアナーキズム」を実践していると言える。そんな現代性、より社会のインフラストラクチャーや経路依存性 Path Dependencyへの理解が深まってきたからこそ、私たちは社会の中にいて、オープンであることが必要になってきたと言えるのかもしれない。

こうした状況の中で、長期的で開放系な空間が増えてきた、と僕たちは言えるようになりつつあると思う。それがウチのシェアハウスや、モテアマス三軒茶屋や、はっぴーの家ろっけんである。それは非-秩序系として、「わけわからなさ」を物理空間として固定化している点に強い特徴がある。わけわからなさの固定とは、いわば「変わり続けることを自身に課する」ということである。なぜならば変わらないことは、即、別の秩序へと向かうからだ。不安定性とは、そこに常に意味の交渉(規範の交渉)が行われていることを意味する。一体この空間の中で、何が正しいのか、正しくありうるのか、それをそこにいる構成員同士が、そこにいる構成員同士の関係性の中で構築させようと試みること、それが規範交渉であり、そしてそれが継続することによって、いわば我々は規範性を解除する(解除するのか、あるいはどんな規範でも受け入れるようになる、と言うべきかわからないが)。そのような規範に対する態度と、そしてそれを実現するための継続的変化を組み込むEmbeddedことが、この長期的で開放系であるようなLiminoidの実装に寄与している。

ここでは二つの批判が考えられる。

ひとつは、これが開放系ではないということ。クラブやヒッピーコミュニティが閉鎖系であるならば、長期-開放系Liminoid(長いので、仮にその変容性を受け取って、変容性リミノイドとする)もまた、極めて閉鎖系だと言える。なぜならば、その変容性リミノイドの非規範性は、極めて人に対するスクリーニング性を持つからだ。いかにその空間が「オープンでいたい」と思っていたとしても、オープンであろうとするその態度自体が、オープンな空間を嫌う人たちに対してExclusiveな態度であることを、僕たちは重々承知している。その意味で、本当の意味で「オープンな空間」などありえないのだ、それは語義矛盾なのである。鯖江市からスタートした、半年間家賃無料の実験的移住施策「ゆるい移住」(半年間の一時的Liminoidと言える)が成功した理由は、そこに埋め込まれたHidden Communicationが極めてうまく機能したからだ―家賃無料である代わりに、「半年間いつまででもいていい」「家具はない」「何人でも住んでいい」「なにをしてもなにもしなくてもいい」、こうした要件は、背後で極めて強く人を選別するルールである。そこでは、未知の他者がいる空間に対して主体的に意味交渉をすること、主体的に何をし、いつまでいるか、自分に何が必要なのかを知り、あるいは全てを自己決定することが求められる。これは、想像以上に「いろいろなこと」を要請するのである。これのどこが開放系なのか?しかしながら、その批判を完全に翻すことはできなくとも、既存のものとの違いを見出すとするならば、それは「オープンでありたい」という態度そのものにある。誰もが来ることはできなくとも、誰もに来てほしいと(その"誰も"がSelectiveであることを知っていようと)いう態度(宣言ではない)を持っていること自体が、開放系であることの、あるいは少なくとも既存のそれらとは違うことの定義を示していると言っていいのではないか。

もうひとつの批判は、この「非-秩序」とした空間が、「わけわからんを重視する秩序」へと転化している、という批判である。これはおそらくまさにそうで、この変容性Liminoidは、それが「空間的固定」として「変容性」を要請すること自体の中に、いくつかの規範/秩序を不可避的に埋め込んでいるといえる。それが例えば「わけわからん、ということを重視する」規範であり、「内部構成が変容し続ける」規範であり、そして「既存の秩序系を無効化しようとする」規範であると言える。それをとって、例えば「単なる異-秩序の特殊例なのでは」というような批判はおそらく可能で、現在の我々に、その批判を翻すほどの力はない。しかしながら少なくとも、その非−秩序のための規範こそが、予期しない秩序を生むかもしれない(あるいは生まないかもしれない)、意味のわからなさ、非-秩序性を担保しているのであって、その矛盾性―容中律的な危うい議論にこそ、その本質を見ることもできそうに思える、というのは、流石に擁護がすぎるだろうか?

変容性リミノイドとはなにであり、なにをなすか?

このように変容性リミノイドの位置付けを議論したところで、でそれが一体何で、何をしようとしているのか(それがどのような政治をなそうとしているのか)を議論しておかなければその意味はないだろう。

まずはそこで何が起こっているのか―非-秩序系による既存秩序の揺さぶり、ということを改めて見てみる。

変容性リミノイドは、開放性によって変容性を担保することで、常に空間に意味交渉が起こり、既存の常識や秩序が無効化される(常に解体-再構築され続ける)ような空間を指す。

そこでは常に他者が往来する。そこでは、そこにいる構成員は常に継続的な意味交渉を要求される(あるいは、意味交渉をしないことを要請される)。意味交渉とは簡単に言えば、「一体この空間において、何が正しく、何が間違っている(ことになっている)のか」を、構成員とのコミュニケーションなどを通じて、あるいは自己の主張を通じて、認知し、あるいは場に共有していこうとするプロセスである。これはまた、秩序自体を構築していこうとするプロセスだと言ってもいい。構成員が変わることで、構成員は常に新しい意味交渉を強いられる。この空間/この人はどのような選好性があるのか。それは(秩序系の中では文書化されていたりするのだが)極めて関係的に構築されるものであり、だからこそそれは常に変容性を持つ。構成員の要素が空間のありさまに影響し、それがまた構成員の振る舞いを変質させる。ここでは、その変容性が、いわば常に自分を新しい関係性に対して投げ込むことが求められ、そこで生じるのは、むしろある既存の常識・秩序の受諾・内面化というよりも、より自己が強調されることになる―なんらの前提的秩序がないゆえに(あるが)、常にそこでは自己を関係性の中に組み込んでいかざるを得ないのである。この意味交渉と場の質的変容とのイテレーション、秩序の解体-再構築こそが、秩序の不安定化を生み、規範や常識の喪失、意味のわからなさを生むのである。

一旦、仮説として、このような意味交渉と質的変容のイテレーションが起きるために必要なのが、場の/設計の「ゆるさ」なのではないか、という主張を試みてみたい。他者が介入したところで、そこに意味交渉の余地がなければ―空間的にあるいは文化的に、既に意味が(秩序が)決まっている、あるいは決まっているように感じられたなら、そこには交渉と変容の可能性はない。そこには常に「ゆるさ」が必要だ、と言えるのではないか、いわばそれは、変容性リミノイドをなす最重要キーである、と主張しえるのではないか?

ゆるさを細分化するとその要素は、異なる他者が常に往来することを担保することと、秩序形成に対して常に抵抗し続けること(意味交渉の余白を保ち続けること)の2点にありそうだ。異なる他者の往来については、それを担う人がいて、その結果としてその空間が「他者の往来性」をアイデンティティ化して他者を呼び込む装置へと変質していくようになる。また秩序形成への抵抗については、それ自体、秩序形成を批判する秩序を(先程の批判の中で既に記述したように…)文化として投げ込んでいく、あるいは投げ込み続ける担い手がいる、あるいはそれがイテレーションの中で、文化化していく必要がある。

さて、このような空間は、これらの前提性によって、(非-秩序としての意味合いの前段階として)いくつかの社会的役割/機能を担っているのではないか。例えば現在見えているもので、「アジールの提供」、「自己変容性」、「社会の断片化に対する超克」、そして「既存系の揺さぶり/社会変容性」。

アジールの提供

既存の枠組みに馴染めない、肩身が狭い、世間の常識に対する抵抗が強い、といった状況に対して、非-秩序は自然にアジール(聖域/逃げ場)を提供する。これはおそらく反-秩序や他-秩序系などにおいても近いものが提供されうると思うが、より非-秩序は受容性が高い(その一方で、その参加に必要とされる要請もまたおそらく大きい)。

このようなアジール空間としての利用は、更に続く融解やさまよいを通じて、構成員自体を既存の秩序に送り返していく役割を担うこともあるし、あるいは全く異なるなにかを生むかもしれない(生まないかもしれない)ことへのゆりかごとしても機能しうる(し、しないかもしれない)。

自己変容性

他者の往来と意味交渉による空間の変容が、いわば新唯物論的に(モノのエージェンシーとして)構成員を変質させ続ける、というのはややナイーヴすぎる理解にも思える。しかしそれが全くないとは言えず、ここではとりわけ、初回の意味交渉への巻き込まれと、そこから意味交渉を無意識に行う(あるいは行わない)までの変容こそに大きな意味があると言えるだろう。この自己変容とは「人類学者たちのフィールド教育」における自己変容Self-Transformationの語をいただいたもので、ここでは既存の秩序性に対する、全く別の秩序(秩序がない可能性/秩序の構築可能性)に対する意味パースペクティブの変容だ、と捉えるのが自然だろうと思う。

その世界との意味交渉可能性自体の変容は、ハロウィンで既に見たようなイニシエーション的な可能性の展開、何にでもなりかわれる自己の獲得を意味する。当然、この「可能性のひらかれ」は、「なんにでもなれる」(この"なんにでも"とは、完全な自由としての"なんにでも"というより、アマルティア・センの言うケイパビリティとしての自由を指しているが)自己変容意識の獲得である。

あるいはこのような「ひらかれ」は、変容性というよりも素朴な意味で「自然さ」の獲得(あるいは要請)なのかもしれない。社会に対する自己のリフレクション行為の慣れ。既存の秩序に当てはめるものとしての自己ではなく、関係性に自己を照射していくことによる自己の形成。

そしてまた、このような自己変容は世界を構築可能なもの、関与可能なものとして編み直す試みであり、「つくることの民主化」(あるいはManziniの「デザイン能力」の考え方)にも広がっていくような感覚であるように思う。それが例えこの空間のみで構築された一時的な有能感であったとしても。また、それが当然に、新・構成員を必ず変容させるものでもありえない。常にそこには、関係性の中で構築される意味に対して、自分の内部との意味交渉が常に行われ、その結果として、自己変容が起こる人にとっては起こる、そういうものだからだ。一方でこのようなアジールと自己変容の提供は、必要な人にとって、極めて必要な空間であることは確かだ(それが変容性リミノイドが担うべきだと主張する気はないが、その一端を担いつつある/担えるのは確かだ)。

社会の断片化に対する超克

変容性リミノイドにおいて、アジールや自己変容が個人に影響するものだとすれば、もう片側には社会側に対する影響がある。それは非-秩序性、境界性、既存の常識を融解させる機能であると言えないか。それは訪れる他者に対して、という機能もあるが、同時に、その空間を内包する空間(例えば、地域やコミュニティ…それは帰納的に拡張すれば世界、という意味だが、それはまだ言い過ぎなように思える)に対して影響しうる。そのオープン性が、それが空間としての地域に対して開かれているならば、その非-秩序性は明らかに地域に影響を与えうる。例えば2004年から開催される河和田アートキャンプは、夏の間だけ開催される15年続くプロジェクトであり、約人口4000人の鯖江市河和田地区に、毎年30〜100人程度の京都の学生が訪れるプログラムであるが(これは軸的には長期と一時的の間に位置するものだと思うが、そしてそれ自体は極めて目的的な=秩序あるものであるかもしれないが)、このプログラムでは、京都の美大生が主に多く参加し、最初の数年は批判が続いたという―ど田舎にピンクや緑の髪の学生たちが突然あらわれて、美術作品をつくってまちに展示したいらしい、という状況を想像してほしい―が、5年後には、「あの学生の子らはいつ来るんだ」という声に変わったという。当然、これは「ある常識」を変質させたに過ぎないわけだが/これは変容系リミノイドでなくても起きうる変質ではあるわけだが、このような影響を通じて、ある秩序に対する融解を外部に対しても影響させうることがわかる。このような秩序や常識の解体は、変容性リミノイドが持つ特性や、地域との関係性の中でいかようにも変容しうるし、あるいは全く力をもたらさないこともあるだろう。それは変容性リミノイドの性質というより、あるいは「空間への実践的関与」という行為が純粋に内包しうる性質なのかもしれない、その意味ではナイーヴな主張かもしれない。わからない。

社会変容可能性

そして最後に、社会変容の可能性―ここで冒頭で「社会の変容」について述べていたことを思い出してもらえれば、この変容性リミノイドが目指すのは、いわばこの点であった。しかし現状、その変容の先―つまり、バージョン4としての「非-秩序」が何をなしうるかは、誰もが模索している段階であり、少なくとも現状のレベルで私が主張しうるのは、「この非-秩序系から、多様な「よりより秩序」「反-秩序」「異-秩序」の芽が育まれうるよ、ということでしかない。あるいはこの異質な空間としてのリミノイド=非-秩序から「何か予期せぬことが生まれる」ことで、全く見知らぬなにかを期待するのは実は間違っていて、この非-秩序空間自体を社会に定義づけること、新秩序化すること自体が、実は非-秩序の目的なのかもしれない。変容し続けること、あるいは変容させ続けられることこそが、新たな社会の秩序になりうること。それはヴェブレンから宇沢に発展する制度主義的な立場から、常にその社会経済システムを最適化し続ける最善策であるとも言えて、その変容性こそが、現在我々が目指しうる最適解なのだとも言える。

その意味でこの変容性リミノイドは、変容し-変容させる空間として非-秩序の位置付けを担うだけではなく、その増殖のための方法論をも検討していかなくてはならないのかもしれない(し、そうではないのかもしれない)。

*

さて、これらはオルデンバーグが述べた「サードプレイス」や、ソジャの言う「サードスペース」とは、どれほど違うものだろうか(違うのだろうか?)

例えばサードスペースが居酒屋や、あるいは通勤電車のような、既存の立場や秩序性から解放された空間であるならば、もしかしたら極めて近いようにも思える。当然、変容性リミノイドは、サードスペース/プレイスのひとつであると定義できそうだ。しかしながらここでは、居酒屋などの空間に対して、初期値としてのバーでは、コミュニケーションのハードルという排他性があり、一方で馴染みのバーでは、変容性が失われる(秩序が成立する)ということを主張しておきたい。家-学校/職場-3rd placeという論で言うならば、ある自己に対して、「もう一つの自己を持てる場でありましょう」という、上記で述べたアジールとしての機能は大きいもののの、自己変容性をもたらすことは少ない。かもしれない。あるいはここでは、3rd placeがむしろ一時的な逃避行為になるという意味で、自己を投げ込む意味交渉が起きるというより、むしろハロウィン的な「一時的に別の他者になれる」ことに意味付けがあるのかもしれない。そうであるならば、むしろリミノイドとしては3rd placeなどは四象限における右下、祭りなどに近い機能を持っているのかもしれない。どうだろう。

おわりに

ここまで、新たな空間としての変容性リミノイドを定義づけしつつ、批判も示したし、議論の不足(サードスペース、サードプレイス、社会の変化の理論…)なども一応示してきた。

機能という側面では、アジールや自己変容といった機能を持つ空間はおそらく他にもあるように思える。そことの違いはなにか?あるいは、常に他者が行き交い、秩序が揺さぶられる、しかしながら変容性リミノイドではない(あるいは変容性リミノイドなのだがわかられていない)空間はあるだろうか?(バーのように?)

そして現在少なくとも社会変容可能性はかけらほども示せていないように思える。それでもこの空間に価値はあるか?なにかをなしうる力はあるか?

それでも、うちのシェアハウスが丸の内に並び、エルメスの向かいに鎮座したのは確かである。

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これをむしろ敗北だと笑うこともできるだろうし、強烈な社会風刺にも見える。いずれにせよ、「なにか」を揺さぶっていることには違いない。

この文章は、極めて仮説的な論である。ぜひ、コメントや問いを投げかけてほしい。まだわからない。価値があるのかどうかもわからないが、少なくとも新しい現象であり、何かがそこで起こっている、それだけは確かなように思える。たぶん。


P.S.12/22

というわけで、Victor Turnerによる「儀礼の過程」を読んでいるが、ふむふむどうやら違うような気がしてきた。

Transformative Liminoidがこれからの社会にとっては重要であるという論をはろうと思っていたわけだが、ターナーがいうように「各個人の生活は構造とコムニタス、また、状態と移行とを交互に経験することである」(p.155)であるならば、むしろ本来のあるべき姿は、ある"空間"にその変容が帰属することではなく、変容するのは個々人であり、そのための「変容できる」と思える(変容へのcapabilityを与えるような)文化や環境こそが重要であるはずだ(もちろん、その状態のひとつのあり方が空間としての変容ではあるが)。その意味では、Transformative Liminoidはいまの日本だからこそ必要になっている、一時的な現象なのではないか…。

つまり、本来は状態-移行が連綿と連なっていくのが私たちの生活であったはずだが、日本では(「やめる練習が足りてない」と野本響子さんが言うように)"移行する"ことがなかなか育まれてこなかった。一方で現代が我々に要請することこそが移行=変化しつづけていくことであり、その摩擦…私たちが「なんか変わっていかないといけない」という状態と、社会/体制の側の、変化を受け入れる文化/環境/制度がまだ整っていない。こうした中で、個々人のリミナルな状態を受け止めるものとして必要とされているのがウチのシェアハウス(などの、移行期の不安定さを受容し、変化を後押ししていく空間)なのではないかという気がしてくる。

今ここで述べたのは特に「個人の変容」という視点においてのリミノイドの重要性という観点であったが、あるいは拡張的に捉えれば、社会の移行期としてリミノイドが空間的に要請されているという捉え方ももしかしたら可能かもしれない。―移行期において、秩序系をリセットするものとしての。しかしそれはやや傲慢だろうと思う。

おそらく、ウチのシェアハウスとしては、こうした「個々の変容」という視点とは別に、「融解空間=既存の価値基準構造の融解」という視点や、変容から「行動」―コルブの学習モデルで言う、内省と行動、という視点で捉えられそうだ―を後押しするものとしての視点がありそうな気がしている。

そうであるならば、リミナリティとしてウチのシェアハウスを捉えるならば、そこでの意義はある状態からある状態への移行期を支えるものとしてあるはずで、逆に融解空間や行動のエンパワメントは別の観点から説明されるべきなのかもしれない。

何を言っているかというと、つまり非-秩序というのは、ある空間単位で達成されるというよりも、より社会的に…もう少し言うと「コミュニケーション」として達成される可能性があるのではないか、ということを松村圭一郎「くらしのアナキズム」を読みながら思ったのである。「変容」への感性は"昨日の私と今日の私は全く違って当たり前である"というような、文化や常識の中に埋め込まれうる。ということを、小川さやかが「チョンキンマンションのボスは知っている」で(確か)示してくれたはずだ。

そうであるならば、ある空間自体がある変容を担保していく、変容のためのhotbedであるというよりも、重要なのはいかにそれをコミュニケーションとして敷衍していくかということなのではないか。あるいはその嚆矢として、やはり空間から始めることがいいのか…。



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