禅、ここまでの理解

鈴木大拙「禅と日本文化」を読んでいる。

ここまでの理解をまとめる。

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著のなかには、

言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである
禅のモットーは「言葉に頼るな」(不立文字)

と戒めがある。

けれども、僕の個人的な確信でいえば、むしろ禅において本質的なのは「言葉で分かった気になってはいけない」ということ(→「禅は行動することを欲する」)であって、むしろ自分なりの言葉で禅を理解しようとする営みを禅は否定しないと僕は確信して、言葉を用いてみようと思う。

(とはいえ、私たちも、真に経験知を得るまで、理解したと思わぬよう戒めとしたい。)

禅とはなにか:禅とは「直観」である

禅とは「直観」により世界と対峙する態度のことである。

「直観により世界と対峙する」とは、「そのままを受け入れる」ということである。それはロゴス(→論理)との対比によって最もその特徴が際立つ。つまり禅とは「分割へのあらがい」である(鈴木大拙は「分割」ではなく「分別」としている)。

私たちは世の中を分割することで世界を理解してきた。一例としては二項対立がわかりやすい。例えば「男と女」「都市と田舎」といったものがそれにあたる。

その他にも、ある概念を「具体化する」行為も当然、分割の概念である。例えば「魚は、海水魚と淡水魚に分けられる」。

禅はこれを否定する。それを代表するやりとりが以下である。

「禅とはなんであるか。」「禅である。」

それが何を意味しているのかといえば、つまり、禅は禅である、ということである。そうでしかない。そうでしかないものとして、直観として受け入れること。これが禅が目指す態度である。

これは現代の僕たちからすると、全く理解できないように思われる。しかし、例えば以下のように考えてみると、どうやら理解は易しい。

「この料理、おいしい!」というとき、「何がおいしいの?ソース?お肉?お肉が美味しいのだとしたら、それは舌触り?旨味?…」という問いは無意味である。「おいしい」というのは、もちろん味もあるだろうけれども、「あなたと食べているからおいしい」のかもしれないし、「この空間がおしゃれだからおいしく感じる」のかもしれないし、無意識に耳に入っている音楽がおいしいのかもしれない。

こうしたことを、ロゴスは分割によって解釈しようとする。しかし、この時点において「おいしい」は「おいしい」としてのみ理解すべきである、ということは理解してもらえるように思う。それ以上のロゴスによる分割は、むしろ本来そこにあった何かが、こぼれおちる営みでしかありえない。

この場面における「おいしい」は「おいしい」なのだという直観を、広く認識一般に拡張しようとしているのが「禅」である。

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禅とはなにか:言葉の否定

ところで、禅は言葉を否定している(不立文字)。その理由は、「言葉」というものが強くロゴス的な概念だからである。

「言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである」

言葉にした瞬間、それは私たちのいる社会の文化や常識により理解されることになる。例えば「ニューヨークは都市である」というとき、その認識は実在の「ニューヨーク」から離れて、私たちの「都市」のシニフィエ(=共通イメージ)を強く反映することになる(つまり、言葉は「代表するもの」である)。

それはまさに禅の直観=「ニューヨークはニューヨークである」という態度に反する思考である。これによって禅は言葉を否定する。

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禅とはなにか:「多即一、一即多」

鈴木大拙は、禅を「多即一、一即多」であると言う。これもまた、禅の分割へのあらがいを基盤にしている。

一なり多なりいうものが存して、それぞれ一方が他方のなかにあるという意味ではない。(中略)禅者にとってはいつも一即多、多即一である。二つのものはいつも同一性を持っていて、これが「一」、これが「多」と分けるべきではないのである。

これを表すやりとりが以下である。

「禅とはなにか。」「非禅である。」

禅とは、禅であり、非禅である。常にそれは同時に存在していて、それで全てである。これが万物に対して適用され、万物は無であり、無は万物であり、色即是空、空即是色なのである。

この発想は難解だが、これに関しては、中沢新一の、ロゴスに対立する概念としての「レンマ」に関する記述が参考になる。

レンマとは、目の前にあるものを、そのまま把握すること。そして同時に、「すべてはつながりあっているのだという理解」を指すと中沢新一は言う。

レンマとは、それぞれの無限の構成要素が同時に変化しつつも、それらが全体としてひとつになり動いているということ。つまり、一とは全体であり、全体とは一であり、そしてそれらはまた、全体でも一でもない。

その徹底した分割へのあらがい。すなわち論理に抵抗する以上、言葉を用いるならば当然に徹底して論理破綻した論理構造こそが「禅」の特徴だと言える。

大要として一旦ここまでを「禅とはなにか」に対する回答としておく。ここからは、主に僕なりに理解し解釈したメモに過ぎないので、読み飛ばしていただいて構わない。

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いくつかの禅のあらわれ

【行動】について

禅は行動することを欲する。最も有効な行動は、ひとたび決心した以上、振りかえらずに進むことである。

禅は「直観」を重要視する。それはすなわち、知識知ではなく暗黙知(経験知)の重要視である。ロゴス(知識知)を排除すればこそ、それは当然のこと。

さらに鈴木大拙は、この行動のなかにおいても禅を説く。

考えるな、思い煩うな、分別を持つな

個人的な解釈になるが、これは単に思想をやめよという意味ではないように思う。思想と実践を繰り返して熟達するとき、その人は行動のさなか、「考えたり、思い煩ったり、分別を持ったり」しない、ということではないか。

ここで、行動のさなか「考えたり、思い煩ったり、分別を持ったり」することを鈴木大拙は「心を止める」という言葉で表現している。

その事をしながら止ることなきを、諸道の名人と申すなり。
心を何処に置かうぞ。敵の身の働に心を於けば、敵の身の働に心を取らるるなり。敵の太刀に心を置けば、敵の太刀に心を取らるるなり。敵を切らんと思ふ所に心を置けば、敵を切らんと思ふ所に心を取らるるなり。(…)兎角、心の置所はないと言ふ。

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【無執着】について

禅とは「孤絶」であるという。孤絶とは「無執着」のことである。

なぜ禅は無執着かといえば、「多即一、一即多」において、「執着」がこの前提に反するからである。執着とは、所有したい、支配したいという欲望である。これは当然、他者の相対化により(つまり、所有や支配の対象がいることによって)起こる。

自己は他者であり、他者は自己であり、自己は自己ではなく、他者は他者でない。「多即一、一即多」の前提に立てば、自己と他者の関係はそう表現される。

この理解において、執着はありえない。自己と執着の対象とは、このとき既に同一だからである。無執着だけではなく、ここに起きるのは所有や支配の解体だとも言える。

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そして禅とは、生への無執着、すなわち「死の受容」でもある。

これも生への無執着、と考えれば当然のことで、生きているということは死んでいるということであり、そのどちらでもない、という理解のなかで位置づけられるだろう。

鈴木大拙は、上杉謙信と武田信玄の川中島の合戦において、謙信が信玄に切りかかった際の応答を載せている。

謙信は敵将が数人の幕下とともに悠然と椅子に腰かけているのを見るや、剣を抜いて信玄の頭上真向から切りつけて「いかなるかこれ剣刃上の事」と禅問を発した。信玄は少しも騒がず、その時彼の手にしていた鉄扇で襲いくる武器をかわして「紅炉上一点の雪」と答えたという。

「いかなるかこれ剣刃上の事」とは、「死が迫り、どのような心境か?」という意味。ここで信玄は「炉に落ちる雪のようなものだ」と応えている。

すなわち信玄はここで、生への執着や、死への恐怖や不安はないということ。「熱い炉に舞い落ちる雪のように、あれこれ物事を分別せずに運命に任せるのだ」ということを表現しているのである。

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改めて禅の視点から自分の発言を見ると、禅の考え方に近いものもいくつかある。無意識のうちに影響を受けていたと思ってよいのか、あるいは社会の潮流のなかにある、親しい思想に影響を受けたのか。

このあたりは「多即一、一即多」か。

以下は、「言葉の否定」(代表の否定)みたいなところ。

もちろん自分自身、多層な思想のうえに成立する社会的存在であることは間違いない。けれど、僕がロゴスに依って立つ人間であることは間違いなくて、こうした言語への潜在的な敵対は、僕自身がロゴスに偏っていることを痛烈に意識しているということの証左でもあるのだろうなあ。

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(蛇足:スピノザと禅)

ところで哲学者・スピノザの態度と、鈴木大拙の説く禅の思想とはよく符合している。(昨日、ちょうど100分de名著を見ていたので…。これは完全に蛇足。)

スピノザは、「スピカ」で完全と不完全に関して述べている。「人間は、一般的観念(=僕たちの共通認識)によって、完全と不完全とを判断している」。例えば、私たちは築造途中の家は「不完全」であるが、完成したら「完全」だとみなす。それは、人間に「家に関する一般的観念」があるからだとスピノザは考える。

しかしそれは、なにかそこにある実在(今回は「家」)そのものに「完全」だとか「不完全」だとかという性質が存在することを意味しない。完全だとか不完全は、あくまで私たちが、私たちの一般的観念に照らして判断しているだけである。すなわち、実在そのものに「完全」だとか「不完全」だという性質は存在しない。この思想は、言葉による代表を否定する禅の考えとよく似ている。

またスピノザはその前提として、神が全てを内包するという視点に立つ考え(汎神論)において、世の中の全てに神の存在を捉え、「神即自然」と説いている。このスピノザの「万物が神の法則により動いている」という思想もまた「多即一、一即多」という禅の思想によく似た思想であるように思う。

ちなみに鈴木大拙は汎神論を否定している。神とその他、という分別が存在している時点で、それは禅の思想に反するからである。「多即一、一即多」でいえば、一というのは同時に多であり、多とは同時に一である、と鈴木大拙は言っている。



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