2023年8月16日 「泣けてくる」

突然だが、日記にタイトルをつけ始めた。とりあえず8月分だけ。たまに自分で読み返すときに全然内容を思い出せないから。

ホホホ座へ。古本は永江朗『批評の事情:不良のための論壇案内』(ちくま文庫)と『新・批評の事情』(ちくま文庫)。新刊は碇雪恵『35歳からの反抗期入門』。刊行は「温度」とあるが、多分ZINE。

とかく京大周辺は素晴らしい。歩いていると泣けてくる。実際には泣いていない。ここらをあの人やあの人と歩けたらどんなにか素晴らしいだろうと考える。

歩いていると素敵なお店はたくさんあるが、「お、素敵なお店だ。ちょっとふらっと立ち寄ってみよう」とはならない。どうしても足が躊躇する。どんな服を着ていてもその店には合わない気がしてしまうし、一人で店に入って一人で何をすれば良いかもわからない。これからの長い独り身人生、いかにせん。泣けてくる。実際には泣いていない。

京大の周りを歩いていると、ふとあの有名な時計台も楠も見たことがないことに気がついた。この時点で泣けてくるが、一応探してみる。実際には泣いていない。南端の辺へ向かう。吉田寮の前のタテカンがなくなっていた。すわ撤去か、と悲しくなったが(もちろん泣いていない)、よくよく見れば生垣の向こうに紐で止めて一時的に片付けてある。台風対策だろう。安堵。尚も歩く。南端にはない。少し上がって、バス停「京大正門前」の近くの通りを入る。果たしてそれはあった。喋ってる人やジャグリングをしている人がいて、やはり素晴らしい。ここは鴨川の延長なのかもしれない。泣けてくる。実際には泣いていない。

京都大学新聞なるものが無人で売られていた。外国人観光客がお金を支払わずに取っていったが、それを咎める勇気は私にはなかった。泣けてくる。実際には泣いていない。私はきちんと100円払って購入した。充実の内容。タテカン訴訟と吉田寮訴訟の記事を読む。京大はひどいねしかし。何が自由の学風だ。怒りで泣けてくる。実際には泣いていない。

出町柳まで上がってくる。枡形商店街で呉服屋のイケメンを眺めつつ、古本屋で京極夏彦『陰摩羅鬼の瑕』(講談社文庫)と玉井豊男『料理の四面体』(鎌倉書房)を買う。

今日は五山送り火である。京都3年目にして初めて見に行った。初めは行く気はなかったが、出町座で『四畳半タイムマシンブルース』を観ようかと思っても日付的に満席だろうから、と帰ろうとしてうろうろしていたら19時になっていたので、ならもう大文字を見ないと勿体無いんじゃないの?!と思い一人でデルタ付近の壁際に陣取って1時間くらい待ち続け、ついに点火。おお、とは思うが、特に大きな感慨もなく、まあ、綺麗だね〜という感じである。しかしこれを市内中で同時多発的に、しかも多種多様な図様でやっていると考えれば、うむうむ素敵じゃないかという気持ちが俄かに出てきもする。やはり空間的広がりは重要だ。

ところで、ホホホ座へ行くバスの車中、隣の婆さんは必死にノートに何か書きつけていて、ちょっと盗み見ると「死ぬまでにすること」とか書いてあった。「英語マスター」とか「優しい人になる」とか。ちょっとしゃらくさいがいいじゃないか。ちょっとめくったと思えば、「成長・成幸するために」などと書かれている。怪しいにおいがしてきた。何せ「成功」ではなく「成幸」である。さらに見れば、「いらない人」なる項目がある。よくよく見れば「ホームレス」だの「ブルーカラー」だのと書かれている。最悪だ。やっぱりネオリベ自己実現教の信徒だったか。婆さんまでもがこういう価値観に取り込まれるとは嘆かわしい。泣けてくる。実際には泣いていない。しかし高齢女性ってネオリベ的には排除の対象じゃないのか? なぜ取り込まれている? 謎だ。

一方で、アジカンのプレイリストを組み替えたあとゴッチのnoteを読んでいるお兄さんがいたりするのは救いだった。

さて、この日記には「泣けてくる。実際には泣いていない。」という記述がなんと8回も登場する。これはウケ狙いでもなんでもない。ウケ狙いだとしたら寒すぎる。私の本当の心情だ。心の中で泣いている。あるいはトホホを通り越して自分に失望し呆然としている。この日記では8回だが、毎日15回はこうなる。きっかけはだいたい些細なことだ。ジャムの瓶が開かない、自分のくしゃみが部屋の中に反響したのが聞こえた、2日連続でマクドナルドを食べたことに気づいた、壊れたままになっている洗面所のドアに慣れてしまっていることに気づいた、などなど。泣けてくる。実際には泣いていない。

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