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51.ローマ3:19-20 律法によって人は罪を意識するだけ

19,私たちは知っています。律法が言うことはみな、律法の下にある者たちに対して語られているのです。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
20,なぜなら、人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。

ローマ人への手紙3章19₋20節、新改訳聖書2017


 「律法」の下に生きる人は、律法に従って罪を認識し、神によって義とされるために律法の教えを守ろうとします。しかし実際には、その努力は空しく終わり、希望は達成されない、とパウロは断言します。 

 宗教の教えを実践しようとする人々の「努力」を奨励するあらゆる宗教は、この「律法」と同じです。

 だから、誰もが「願わくば、神によって義とされ、天国に入りたい」と期待するにとどまるのだろうと思います。

 パウロが言ったように、"律法を行うことによっては神の前に義と認められない" "律法を通して生じるのは罪の意識です"。

 具体的に何が問題なのでしょうか?

 生ける神を認めない生まれながらの罪人にとって、「しなければならない」律法にはその人を救う力がないのです。その人のうちに、律法を行う力がないからです。

 律法の役割は、人間に神に対する罪を認識させることに限定されていることがわかります。

考えてみましょう:律法を行いきれないと実感して失望したことはありませんか?


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