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エクレシア―新約聖書の教会の活動―

新約聖書で「教会」という語がはじめて出るのが、マタイによる福音書16章。弟子たちが集められイエス・キリストに従い学ぶようになって3年程が経過している時点。

そこで、イエス・キリスト御自身が何者だと考えているのかを弟子たちに尋ねた。ペテロがそれに答えて、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えたことに対しての教え。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。(マタイ16章18,19節)

この「告白」は、人の経験したことだけから結論付けられるものではなく、「天にいますわたしの父」、すなわち、神からの啓示があってはじめて可能となる類の理解に基づくものだ、と言われる。瞑想によって悟るものでも、宗教的活動を熱心に行った結果、得られるのではない。

旧約聖書に記される数千年の歴史の中で御自身を現してこられた神の、それらの啓示の結論とも言える。キリストの到来を預言している数々の言葉への彼らの理解と、眼前の「イエス」とが一致したからこそ、弟子たちは「あなたこそ・・・・」と心からの告白ができたのだろう。

現代の私たちにとっても、イエス・キリストを個人的に知ることができるのは、ただ、救いの福音を聞いてそれを信じることによる。それは、旧約の預言に記されていたとおりに、キリストがすべての人の罪のため十字架で死なれ、葬られ、三日目によみがえられた、という知らせだ。

この「告白」を土台として、「わたしの教会」、キリストの教会が建てられる。この同じ告白をしている人々の集まりが、キリストの教会。神からの啓示に聞き従う備えができている人々の集まりだ。

その教会の安全保障宣言がまずあって、それから「天国のかぎ」が授けられる。

地上でつないだり、解いたりできる「かぎ」が、「あなた」に与えられると言うのだ。これは、罪の赦しに関わる表現で、地上に生きている者が神からの罪の赦しを受けたなら、天でも赦されていることを意味する。永遠の命が与えられる。

教会には、一人の人の永遠を決める、とてつもない「かぎ」が与えられている。教会が好き勝手に人を断罪して、天国だ、地獄だ、と言っていいわけではない。神の啓示であるキリスト告白に導かれた人に関して、その罪は赦されたと、教会は宣言することが許されている。福音の伝達とその結果を明らかにすることが、教会にゆだねられている。

現代の教会は、社会の中ですでにある程度の地位を占めるようになっていて、さまざまな社会的な活動もそれぞれの時代の要求に応じてなされてきているだろう。けれども、「黄泉の力」も教会に打ち勝つことはないと安全保障がされ、「天国のかぎ」が与えられていることが、教会についての教えの第一であることは、忘れてはならないだろう。


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