見出し画像

人の作った宗教ではなく

天国の望み、天国を信じることが、空想なのか現実なのか。確かなことはわからなくても、気持ちを大切にしたい、というところから、一歩、先に進んで、確かな現実だ! ということを体験した人の話。

ローズのジレンマという芝居。アメリカが舞台だから、キリスト教が底流にあると思うけれど、天国とか、死んだ人の魂のゆくえとか、何かの宗教にとどめることはできない希望がある。

パウロが、ガラテヤの人々に向かって、神の確かさを話し始めます。宗教の教え、ではない。

たぶん、西暦30年代の早い時期。イエス・キリストが十字架にかけられて死に、復活して、天に昇ったのが西暦30年頃でした。

今、私は人々に取り入ろうとしているのでしょうか。神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、人々を喜ばせようと努めているのでしょうか。もし今なお人々を喜ばせようとしているのなら、私はキリストのしもべではありません。(ガラテヤ人への手紙1章10節)

ガラテヤの人々に、最初にイエス・キリストの福音を伝えたのはパウロでした。神が人間の現実の中に働いて、ものすごい出来事が起きた。人類の歴史上、ただ一度だけ起きて、それで歴史が転換してしまった。そこに生きたパウロの手紙です。

伝統の宗教は、規則をみんなで守れば、天国ができあがる、とユダヤ人を統一しようとやっきでした。そのグループの人たちがガラテヤに入り込み、「違った福音」を吹き込みます。ガラテヤの人たちは、なんだかすぐにそれになびいてしまったのです。

パウロは、ガラテヤの人々の心が、他の人たちのグループになびいてしまって、悔しがったのでしょうか。

「人々に取り入ろうと」しているのではない!と、パウロは話し始めます。

宗教が、もし自分たちのグループの拡大を目標にしてしまって、神を忘れてしまうとき、命を失ってしまいます。パウロは、現実の中に働きかけてくれる神から、それることはできなかったのでした。

規則で、天国に行く道筋が整うのではない。神ご自身と結びつくことが、肝心なこと。天国は規則の道を努めて進んでいった先にあるかもしれない、というのではなく、神の現実の確かなところ。

それが、互いにかみつき合うのではない生き方、互いに愛し合う生き方の土台になる、ということを、ガラテヤ人への手紙で解き明かします。

昨年末、召天した友人のことを思うにつけても、確かに再会できることを、神さまに感謝したい。パウロの手を通して描かれたこの手紙にも、感謝したい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?