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はじロー(9)心の割礼

はじめて読むローマ人への手紙2章25-29節

心の割礼

宗教儀礼の中でも、生まれて8日目の男性のからだに「しるし」を刻むことは、日本人にはなかなか理解しがたいことです。

アブラハムが神の約束を受けたとき、約束を受けた者としてのしるしとして、「割礼」が子々孫々に義務付けられます。なお、世界では女性割礼もあるのですが、聖書は男性だけに施すことを命じています。

なぜこのような「しるし」が定められたのか。聖書には不思議なさだめが数々あるのですが、その中でも群を抜いて不思議な感じがします。まず、「しるし」と言っても、他人に見せるようなものではありません。そして、さらに「心の割礼」と言われるとますます意味が分からなくなってしまいます。心に何が刻まれてしるしになるのでしょうか。

ヒントは、同じくパウロの手紙の一節だろうと考えられます。

確かに今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心には覆いが掛かっています。しかし、人が主に立ち返るなら、いつでもその覆いは除かれます。
コリント人への第二の手紙3章15‐16節


心にある覆い。色眼鏡をかけたままで神を見ても見えない。その覆いを取り除かなければならない。それを象徴的に現しているのが、割礼なのだろうと思えます。覆いを取り除かれた心で神に向かう人。神との間の関係を妨げるものが心にない人。それがアブラハムだったのです。

もともと、人目にさらすようなしるしではなかった「割礼」でしたが、それが象徴としてあらわしている本来の「心の割礼」という、もっと、人目に隠れたしるしを持っているのが、人目に隠れたユダヤ人だ、とパウロは言うのです。それは、民族としてのユダヤ人だけに限られず、どんな民族であっても、どんな人であっても神の称賛を得られることを意味しています。

もう一歩、心の割礼の理解を深めてみます。それは、「文字ではなく、御霊による心の割礼」について。

結論は、この手紙の5章で詳しく見ることになります。そこでパウロは「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」と書いています。

神に愛されていることがわからない。それこそが、心に覆いがある状態なのでしょう。

愛されていることがわからないために、愛されるように頑張ろうとするのが、良いことを積み上げようとすることに結びつきます。良いことを多くしたら、気に入ってもらえるだろう、愛されるだろう、と。そんな努力をしなくても本当はもう愛されているのに、それがわからない。信じられない。そしてさらに、愛されようと努力する。

心に覆いがある人とは、そういう人だと考えられます。

現実に、自分が神に愛されている人間だ、などとはなかなか実感できるものではないかもしれません。そのような私たちのために、神さまは、イエス・キリストを贈り物として下さったのです。

ローマ人への手紙 2章 25〜29節

25,もしあなたが律法を行うなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法の違反者であるなら、あなたの割礼は無割礼になったのです。
26,ですから、もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、その人の無割礼は割礼と見なされるのではないでしょうか。
27,からだは無割礼でも律法を守る人が、律法の文字と割礼がありながらも律法に違反するあなたを、さばくことになります。
28,外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上のからだの割礼が割礼ではないからです。
29,かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による心の割礼こそ割礼だからです。その人への称賛は人からではなく、神から来ます。


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