信じる者がひとりも...
「信じる」ということは、自明のことのようで、案外とうやむやなところがあります。特に、「宗教」ということで身構えてしまうと、それこそ、信じられないという気分に。
インドネシアで生活していると、簡単に人を信じるように見えて、でもあまり期待していないような態度を感じることがあります。民族・文化の違いのためかもしれませんが。信じるとはどういうことなのか、特に、神を信じるとは、と、考え直さないとと思わされます。
神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。ヨハネ3章16節
聖書に、多くの信仰者のエピソードが出てきますが、その中から3人を見てみます。これらの人たちは人生の中で危機に出会い、神によってその危機から導き出された、と。信じる者には一人々々、神が導きを与えてくださっていて、滅びることがなく、永遠の命を得るようにされる、ということが具体的に見えてくるように思われる3人です。
第一が、アブラハム。
紀元前2000年の人物です。創世記15章ですが、ここでは「アブラム」と呼ばれています。子孫が与えられる、非常に広大な土地が与えられる、という神の約束がすでになされていた時でした(創世記12章2節、13章14‐17節)。けれども、時間がたつばかりで、いっこうに子供は与えられません。それで、アブラムの心から平穏が失われていたようです。
神は、「恐れてはならない。わたしはあなたの盾である」と語ります(創世記15:1)。アブラムはさらに心の痛みを神に伝えますが(2‐3節)、それに対する答えが、「天を仰いで、星を…数えてみなさい」「あなたの子孫はあのようになるでしょう」でした(4‐5節)。
アブラムと不妊の妻は、子孫を得るのはもはや無理、という年齢になっていました。それでも、神が造られたもの、ここでは天の星々だったわけですが、それを見上げたのです。そして、全能の神、ご自身の計画を持ちそれを全くの善意において実行なさる神を、信頼したのです。
神は、人間が自分の欲求に合わせて利用できるようなお方ではありません。神が一切の事柄に権威をお持ちなのです。それは天の星々であれ、また私たちの人生でも、です。ここで大切なことは、アブラムが神のなさった事柄を見上げて、神を信じたことです。
時が下り、神はひとり子を賜ったのでした。それがすべての人に対して神がなされたことです。2000年前のことです。私たちは、それぞれにそれに応答しなければなりません。ヨハネが書いている通り、「御子を信じる者がひとりも…」例外なく、神の祝福を得るためです。
第二は、ザレパテのやもめです。
紀元前900年頃の出来事です。ザレパテとは、パレスチナ地方にある土地。ひどい飢饉が一帯を襲って、そのやもめと子供は手元にある一握りの粉を使ってパンを焼いたらそれを食べて、あとは死ぬのを待つ、という状況でした(1列王17:8‐12)。
ところがそこにエリヤが神に遣わされ、こう語りかけます。「恐れるには及ばない。行って、…まず、わたしのために小さいパンを、一つ作って持ってきなさい。『主が雨を地のおもてに降らす日まで、かめの粉は尽きず、びんの油は絶えない』とイスラエルの神、主が言われるからです」(13,14節) やもめは、この危機的な状況もまた神の支配されている中にあって、神がエリヤを遣わしてくださったのは、ここで神の奇跡的な働きを経験するためだ、と悟ったのでした。それで、彼女はエリヤの命じたとおりに行ったのです ( 15-16節)。
けれども、やもめが心から神を信じたのは、子供が生き返らされてからでした。飢饉で人が死ぬことは、その頃、多く見られることで、普通の事と感じられるものでした。けれども、自分の子供が病気で死ぬことは、やもめにとってはこれ以上に心痛むことはなかったのです。それでエリヤにこう訴えます。「神の人よ、あなたはわたしに、何の恨みがあるのですか。あなたはわたしの罪を思い出させるため、またわたしの子を死なせるためにおいでになったのですか」(18節)。ついに、神はその子を生き返らせます。それで、やもめは最後にこう告白するのです。「今わたしはあなたが神の人であることと、あなたの口にある主の言葉が真実であることを知りました」(19-24節)
人間は、罪の故の永遠の死に脅かされています。しかし神は、永遠の命が本当に与えられることを、神の子イエス・キリストが十字架に死に、さらに死人の中からよみがえらされることで、はっきりと示したのです。この復活によって証拠づけられた神の贖いを信じることで、私たちは神の完全な罪の赦しを個人的に経験することができるのです。
第三に、ヒゼキヤ王です。
紀元前8世紀のユダ王国。アッスリア軍の攻撃を受け、アッスリア王に遣わされた者がユダヤの人びとに投げかけた挑戦的な言葉を聞きます。「ヒゼキヤが『主はわれわれを救われる』と言って、あなたがたを惑わしても彼に聞いてはならない。 諸国民の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手から救ったか。」(2列王18:32‐33) 国王としてヒゼキヤ王は国の安全のために行動を起こさなければなりません。
アッスリアの挑戦に、王は預言者イザヤのもとに行きます。神に祈ってもらうためでした (2列王19:5‐34)。祈りは、単に神に願い事を唱えることだけではありません。神の言葉を聞くことも含まれることなのです。そしてイザヤが告げた神の言葉は、次のようなものでした。「わたしは自分のため、またわたしのしもべダビデのためにこの町を守って、これを救うであろう」(2列王19:5‐34) 国難にあって、ヒゼキヤ王はその場でイザヤに伝えられた生ける神の言葉を信じました。神は語り、その言葉通りに実行してくださる方だ、と、信頼したのです。
命にかかわる大きな患難、危機の中で、私たちは誰のところに助けを求めに行くでしょうか。生ける神とは、私たちに語り掛け、そして約束してくださったことを必ずなして下さる神です。神が存在すると信じるのが信仰なのではありません。神が「わたし」を愛し、 「わたし」のためにひとり子をささげてくださって、「わたし」が滅びることなく、永遠の命を持つようにとしてくださったお方なのだ、と、この方に信頼することなのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?