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はじロー(4) 放置されて死に至る前に

はじめて読むパウロの手紙 ローマ人への手紙1章24-32節

神の怒りの啓示が続きます。

そこからさらに、孤独死の域をはるかに越えた、追い出されて野垂れ死にさせられる、というイメージの内容に。

手紙の全体の分量に比べたらわずかですが、それでも、重苦しい話が続くのはいい気持ちはしません。「聖徒たちへ」の手紙でなぜこんなに重い話を、と思ってしまいますが、「聖徒」にはかえって思い当たる節のある内容ばかり、ということ。つまり、かつての自分の姿です。

あと少し、神の怒りはどのようになされたのか、パウロの言葉をたどります。

人間最大の悲惨は、死でしょう。天寿を全うしたと言われる死もありますが、そうではない死が多くあります。なぜ死があるのか、などと考えるのは、たとえば、自分や身近な人に死が近づいていることがわかった時です。なぜ自分は死ななければならないのか。なぜこの人が死ななければならないのか。天寿と呼べない死を迎えるかもしれない人間を前にすると、永遠の命を、真剣に考えます。

神の怒りは、人間を「引き渡されました」。汚れに、恥ずべき情欲に、無価値な思いに。

してはならないことをしても、それに無感覚になっているのは、神が人をそこに引き渡してしまったからです。

怒りは、相手を憎み、拒否し、遠くへ追いやるものです。その行きつく先は、死です。この世での人の辛い思いは、怒りの下にあるから生まれる、ということが、ここのパウロの言葉からわかります。

パウロが書き出している「してはならないこと」の数々のリストをみても、極刑にふさわしい犯罪と言えるものではないように思えます。しかし、神が見つめる人の犯罪の源にあるものは、神が怒らないではいられない人の心の思いなのでした。

それらは、一つであることを目指す神の愛とは全く逆の方向性を持ちます。

私たちが怒りを人に向けるとき、他人に向けるにしても自分に向けるにしても、その怒りが本当にふさわしいものかどうか、神の裁判にかけられることになります。

そこで私たちを弁護してくれる存在があるとしたら、それは神以外にはないでしょう。私たちに、一つになりたいと願っている神は、福音を与えてくれていました。そこに神の義を啓示していたのです。天から啓示されている怒りは、一つとなることを願う愛に反している心と行為とに向けられると言えるのでしょう。

怒りの最後の行き着くところが「死」。聖徒たちは、自分がそうならないうちに神の愛を知り、救われることができたことに、安堵と、同時に負い目を感じる箇所です。そして、さらに成長することへと望みを持ちます。それは、5章以降から詳しく教えられていきます。

 そこで神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡されました。そのため、彼らは互いに自分たちのからだを辱めています。
 彼らは神の真理を偽りと取り替え、造り主の代わりに、造られた物を拝み、これに仕えました。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、彼らのうちの女たちは自然な関係を自然に反するものに替え、同じように男たちも、女との自然な関係を捨てて、男同士で情欲に燃えました。男が男と恥ずべきことを行い、その誤りに対する当然の報いをその身に受けています。
 また、彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。それで彼らは、してはならないことを行っているのです。彼らは、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。また彼らは陰口を言い、
人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。
彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知りながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです。(ローマ人への手紙1章24~32節)

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