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裏切り者ユダのためにも

マタイ26:14-25

イスカリオテのユダの名前は、近年とてもポピュラーになった映画「ダ・ヴィンチコード」で有名になりました。ユダといえば裏切り者、というレッテルがついて回ります。そうじゃないかも、というところから出来上がった小説がその原作です。

ユダは本当はどんな運命の下に生まれていたのか。とっても気になるところです。

ユダの裏切り(マタイ26章14-16節);
過越しの食事の席で(26章17-25節);
  A.過越の食事の場所(17-19)
  B.弟子の裏切りの予告(20-25)
  (C.過越の食事の新しい意義)

マタイの福音書は、この裏切り行為があったために、キリストの最大の目的だった「罪の贖い」が成し遂げられた、と明確に伝えています。しかも、最もふさわしいちょうどの時刻に。

これは、聖書の中の話にしばしば感じられるパラドックスの中でも、最大級のものかもしれません。ユダは、神のみ心の遂行者という操り人形だったのでしょうか。それとも、自分の意志で人類最大の罪を犯したのでしょうか。

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A.過越の食事の最中、裏切りに走る決定的瞬間

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裏切る前日、ユダはイエスを宗教家たちの手に引き渡す密談をしていました。機会を伺っている中で、ユダヤの祭の過越の食事の時間が迫ってきます。これは最初のチャンスになり得る時でした。民衆がそれぞれ楽しい食事をしている時に、確実にイエス・キリストを捕縛することができるかもしれない。ところが、弟子たちが場所を確認しに行く先は、謎めいたヒントしか語られません。遣わされた弟子だけが、その場所を確かめ、準備します。ユダは乗り込むべき場所を特定できないまま、夕方の食事の時間となります。

過越の食事は、ユダヤ人の大家族が一同に集まって神の救いの歴史を喜ぶ、お祝いの時です。自分たちのルーツとアイデンティティを確認すると共に、子供たちに神のなさる救いを期待する信仰を継承する時でした。弟子たちはキリストの家族として、いつものように、そうした楽しい雰囲気を期待しながら席についたかもしれませんが、この日は違っていました。「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切る」。皆驚き、心配して、「まさか、私ではないでしょう」と口々にいいます。誰もが、心にそういう思いを秘めていたのでしょうか。「あなただ」と言われて、ユダはここで部屋を出ます。

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B.ユダの苦悩を見越したキリストの言葉

「人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」と言われるような苦しみを、ユダはこのあとで味わうことになるのです。ユダは最後には「罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯した」と言って自殺してしまいます。

魔が差した思いにとらわれて、宗教家たちに引き渡す手はずをするように突き進んでしまった、その最後は、後悔してもしきれない苦悩でした。

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一瞬の魔が差した思いに捕らわれて、人は、とんでもない事をしてしまうものだ、という一例。他の弟子たちも、見透かされたら困るような思いを、やはり持っていたのです。

そのように、人はすべて罪人なのですが、それを実行に移してしまうのをとどめる良心が一線を越えさせないようにします。ユダは、その堤防を少しずつ削ってしまっていて、ここで決壊してしまったのでした。

取り返しのつかないことをした過去は、決して変えられません。では未来は、その過去にいつまでも囚われ続けなければならないのでしょうか。

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C.未来を買い戻すキリストの贖い

ユダが自殺に終わらないで済む道はなかったのでしょうか。そもそも、ユダが「裏切る」ことになったのは、イエス・キリストに対する彼の完全な無理解からだったのです。他の弟子たちも、イエスを理解していたわけではありませんでした。ただ、旧約聖書の預言のキリストだとは信じていたのです。ユダには、それもなかったのです。そして、最後の晩餐で語られた犠牲の死の意義を聞くことなく部屋を出てしまったユダでしたが、その前にもすでにキリストは贖いに言及しています。

それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。 (マタイ 20:28)

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歴史には「もし」はないとよく言われますが、もしユダが最後の時にこの事に心を向け、キリストの贖いへの希望を持つことができていたら、自殺するほどの苦悩に陥ることはなかったでしょう。イエス・キリストの十字架の死は、ユダのためでもあったのですから。そして、三日目に復活するのですから。

「贖い」には買い戻すという意味があります。償いをするだけではありません。贖いは、新しい未来、新しい人生を買い戻します。古い自分に死に、キリストとともに生きる新しい人として生まれ変わる将来が、自分のものとなる。いや、神と共に歩む永遠の人生となる。キリストを無理解のままに売り渡してしまった過去の人間ユダは、キリストに心を向ける一瞬があったなら、贖われていたはずなのです。

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神が台本を作りユダの心を操って、裏切るように仕向けたのではありません。「時」がある限り、キリストの贖いに心を向けるチャンスはあります。キリストの隣に十字架につけられた犯罪人でも、天国を約束されたのです(ルカ23:40-43)。ユダは、数々のチャンスを活かすことなく、自分の考え、自分の思いにだけとどまり、悲しい死を選んでしまったのでした。

死は、本当に悲しいものです。一人でもその悲しみから解放されることを願わずにはいられません。キリストの死だけが、私たちに永遠の命を与えることができる、という聖書の最大の神秘を、伝え続けなければなりません。一人でも多くの人に、実際に永遠の命を得ていただきたいからです。

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マタイによる福音書 26:14-25
時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。
その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。
さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。
イエスは言われた、「市内にはいり、かねて話してある人の所に行って言いなさい、『先生が、わたしの時が近づいた、あなたの家で弟子たちと一緒に過越を守ろうと、言っておられます』」。
弟子たちはイエスが命じられたとおりにして、過越の用意をした。
夕方になって、イエスは十二弟子と一緒に食事の席につかれた。
そして、一同が食事をしているとき言われた、「特にあなたがたに言っておくが、あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
弟子たちは非常に心配して、つぎつぎに「主よ、まさか、わたしではないでしょう」と言い出した。
イエスは答えて言われた、「わたしと一緒に同じ鉢に手を入れている者が、わたしを裏切ろうとしている。
たしかに人の子は、自分について書いてあるとおりに去って行く。しかし、人の子を裏切るその人は、わざわいである。その人は生れなかった方が、彼のためによかったであろう」。
イエスを裏切ったユダが答えて言った、「先生、まさか、わたしではないでしょう」。イエスは言われた、「いや、あなただ」。

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       (写真は、2016年アルバムから)

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