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四福音書によるイエス・キリストの福音

今から四十年前のこと。親しい友人が、自身に起きた出来事を語ってくれました。どうにも信じられないような内容。その友人は、僕のためにもなることだ、と心底思って、熱心に語ってくれる。ふだんなら信頼できる人なのだけれど、この話を信じていいものなのかどうか・・・

こと「神さま」となると、なぜか、身がまえて聞いてしまいます。宗教は胡散臭いもの、芸術的な建造物や、芸術的な物言いで、驚嘆させ、丸め込んで心を虜にしてしまい、挙句の果てには人から金品を吸い取るマシーンじゃないか・・・ そんな先入観に支配されていたからかもしれません。

キリストのことについては、全く知らないわけではありませんでした。日本でも、ずいぶんといろいろ本が出ています。いくつか、読んだことがありました。でも、本物の「聖書」だけは読み通したことがなかったのです。だいたい、厚すぎる。しかも、ずらずらと名前を羅列してあるだけのところもあって、何の面白みもない。そこでストップしたまま終わっていました。

改めて、ルカの福音書の初めの部分を読み直すと、キリストについていろいろと聞きかじっていたことというのは、戒めとか、教えとかであって、いったいどんな出来事があったのか、それがどんな意義を持っているのかなどを、その当時、考えたこともなかったことに、気づかされました。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、4人が書いた福音書を眺めてみて、イエス・キリストの生涯を、とりあえず自分なりにまとめてみようと思ったのは、そんな経験があったから。今、自分がキリストを信じる者になってはいるけれど、自分が人から信頼される者として、キリストが信頼できる方として人に語ることができているだろうか。言葉巧みに人を口車に乗せるのではなく、決して信頼を裏切らないように努めつつ、キリストこそが全く信頼できる方であることを、言い表せていただろうか、と反省しきり。

ゆっくりと、この出来事を知ってもらって、よく考えてもらって、納得してもらいたい、という願いを込めて、まとめていきたいと思います。

思えば、「いのち」にかかわるこの肝心なことを、自分にとって大切な人たちにちゃんと伝えていなかった、という負い目のような気持ちがあります。コンパクトに、時短の流れに沿った話をできないのが、いのちの話。ずっと一緒に生活して、それでようやく実感してもらえるものかなぁ、とも思います。しばらくお付き合いいただければ感謝。

特に、福音書を読み比べると、あちらこちらで記述の違いが目につきます。それを早合点して、4人の誰かが間違えたのだ、と思ってしまっては、それ以上先に進むことができなくなります。そして、聖書への信頼を失うことになります。聖書への信頼度は、その程度のほどほどなものにしておくくらいでいい、あまりそれにばかり頼らないで、広く知見を求めることが大切、と、福音書も厳密に読む必要はない、ということになるのでしょうか。そうではないだろうと思います。厳密に考えるために、広く知見を求め、神の御旨をより正確に受け止める努力が必要です。神の御言葉を学ぶことは、決して簡単なことではありません。

過去の一人の人間の考えを正しく理解するために、現在の一人の人間についても同じですが、決して簡単に結論付けして、レッテルを貼ってはなりません。福音書を読み比べることは、相手の真実な姿を知る忍耐力を訓練するようなものかもしれません

さて、新約聖書を学校で配布されて見たことがある、という人も多いかと思います。でも、最初のページを開いて、そこでやめてしまう人も、多いかもしれません。

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、…」

ほとんど1ページにわたって名前の羅列が続くのです。ボクは高校の時、友人たちとその最初の部分を早口で読む競争をしたりしていましたが。で、そこから先には、やっぱり読み進めることはありませんでした・・・ よくわからなかったし、どうにも興味の対象にはなりえませんでした。

新約の最初の書簡、マタイ福音書が書かれた当時、ユダヤ人以外の読者の興味をひこうとする努力を全くする必要のない文書だったでしょうから。

1.歴史を知る

新約聖書の60%を占めるのが、福音書と使徒行伝という、イエス・キリストの福音(=良い知らせ)の出来事を記している文書です。いったい、イエスという人物はだれだったのか? なぜイエスの出来事がよい知らせだと言われるのか? 身近に数年間暮らした弟子たちの記録、あるいはその書記のような人による記録が、ここに綴られています。

イエス・キリストの生涯を記している福音書は、200のエピソードに分けられます(→四福音書調和表)。その中で、最後の1週間を記録している部分だけで、全体の三分の一。キリストの受難と復活がその内容です。

なぜ、キリストは十字架で死ななければならなかったのか。それは、人が神と共に生きることを妨げているものがある、それを取り除くには、キリストの死だけしか方法がなかった… 犠牲を通して、人は多くのことを学んできたと言えるでしょうが、キリストの犠牲を通して、私たちは神を知ることを学び始めるのです。目に見えないだけではなく、人の心にある神への隠れた反感が、人を愛しつくしている神を知りえなくしてしまっている、と聖書は語ります。その神を見えるようにしてくれるのが、イエス・キリストなのです。神とはどんな方なのか。イエスを見れば、神はご自分の命よりも人を愛している方だと知ることができるのです。

神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。
(ヨハネの福音書1章18節)

イエス・キリストの伝記、とでも言えるかも知れない福音書ですが、なぜ、4つの福音書を必要とするほど、その生涯を学ぶことは大切なのでしょうか。ほかの宗教の経典を詳しく調べたわけではありませんが、教祖と言われる人の伝記が、経典の半分以上を占めていることはないようです。イエス・キリストの存在そのものが、福音であって、その生涯や歴史を「序章」として扱うことはできないのです。

仏典が釈迦の死後200年たってから初めて文章として記録されるようになったのとは異なり、マタイ、マルコ、ルカ福音書は、キリストの昇天(紀元30年)後、1世代の間、つまり紀元60年代までの間に書かれています。イエス・キリストの生き証人がまだいるうちに、「福音書」は広まっていったのでした。当然、生き証人たちの手によって、いかがわしい文書は排除されていったでしょう。イエス・キリストの姿を正しく書きとどめているものが、教会の間で正典(正しい基準;カノン)として受け入れられてきたのです。

ここで語られている2000年ほど前の出来事をひもとくには、歴史の資料を調べると、だいぶんわかりやすくなります。なにせ2000年前の、イスラエルという私たちの生活とは遥か遠い場所で起きた出来事の記録なのです。読むには、歴史的、社会的なな背景を知っておいたほうがよりよく理解できる内容。逆に言えば、ここに書かれている事柄は、人類の歴史と切り離すことのできない内容だ、ということなのです。

まず、ユダヤ人の歴史と切り離せない内容。程度の差はありますが、どの福音書も、預言の成就に注目しています。旧約聖書の背景を全く知らないでは、福音書に記される出来事の深さの理解は半減してしまいます。数千年の間、人類に働きかけ続けておられる神を知ることと、歴史の一時点の出来事を知ることとは、切り離すことはできません

キリストが馬小屋で生まれたという有名なクリスマス・ストーリーも、イザヤ預言書、ミカ預言書など、キリスト誕生の700年前の文書に預言の記録が残っています。預言とその成就の記事は、永遠の神の誠実さを示すものです。

このように、福音書をまず読んでから、旧約聖書に取り組んでみることもまた非常に有益だと思います。

次に、当時のユダヤ人を取り巻く環境。ローマ帝国の一地方で起きた出来事ですから、ローマ帝国の政治や文化、社会についての知識もあったほうがわかりやすくなります。

たとえば、ユダヤ人がローマ帝国の中で自治権を持っていたのに、ローマの属州であるがゆえの制約も当然ありました。公の死刑執行権はユダヤ人にはなかったために、総督に訴えて裁判をしてもらう必要があったのです。ユダヤ教指導者たちが自分たちで裁判をしてすぐに死刑を執行しなかったのは、当時の社会情勢の制約があったからです。しかも、この事すらも、旧約預言のなかにあらかじめしるされているのです。

2.福音書の目的

福音書を注釈全くなしに読んでも、多くの言葉が心に残り、私たちの生活に光を与えるものであることも確かです。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイ5:3)、「 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)などのように、山上の説教と呼ばれる教えの中には、非常に有名な言葉の数々がちりばめられています。それはそれで、私たちの心に何らかのしるしを残すものでしょう。

自分なりに読んで、自分なりにそれを実践できて、良い結果を生み出せればそれで十分、という人もいらっしゃるでしょう。実際、イエス・キリストの弟子たちは、最初のうちはさまざまな教えを、そんな風に受け止めていた節があります。ところが、それだけでは収まらなくなっていった、というのが、福音書に書きとどめられている内容。弟子たちは、まさに天地がひっくり返るような最後のどんでん返しを経験して、みんな、人が変わります。

イエス・キリストが昇天したあと、残された弟子たちは、お互いにイエス・キリストについて経験したこと、教えられたことを、繰り返し確認し合ったことだと思います。それが元になって、ある程度定型化したフレーズで、語られる内容が固まっただろうと想像されます。

一般に、聖書学者たちの間で「Q資料」と言われている内容とは、弟子たちのこうして話し合われたものだったでしょう。当然、文書化されていたわけではありません。

弟子たちが経験した出来事を4人の福音書記者が繰り返して伝えているようですが、4つの福音書は違う人間がそれぞれの視点から書いたものですから、同じ出来事を書いているとしても、少しずつ違った書き方になっているのは自然なこと。視点、強調点の違いが、文章の違いとなって現れてきます。口裏を合わせて同じように作り上げた物語だと、こうはなりません。証言としての信ぴょう性は、骨子としては一致していて、しかも、詳細についてはそれぞれの特徴的な記録があることからきます。

いろいろな教えを、いろいろな時に、イエス・キリストは繰り返し弟子たちに語っていたようですが、それらをいちいち全部、記者たちみんなが記録しているわけではありません。だから、たとえば、何回も繰り返し語られていたはずの言葉が、なぜ「ここ」で記されているのかを、文脈に沿って考えることが必要になってきます。他のときにも語られていたはずなんですけれど、そちらのほうは書きとどめられずにいたのに、です。そうした取捨選択が、福音書記者によってそれぞれに違うわけです。

4つの福音書の全体的なテーマと目的を、第4福音書のヨハネの記述に見ることができます。

「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」(ヨハネ20:30‐31)


もちろん、これはヨハネの思い描いていたテーマと目的でしょうが、ほかの福音書にしても、これからそれるものではありません。

それぞれの福音書の独特なテーマと目的は、記事の選択やその説明の仕方を細かく見ていくことによって、より明確になります。


3.それぞれの特徴

4つの福音書それぞれが、際立った特徴を持っているのは確かです。

マタイは、旧約に記されている預言の成就にかなり注意を向けています。天地創造以来、神ご自身がなさった最もすばらしい出来事と教えとを伝えるべき真理として提示し、旧約聖書と新約聖書を橋渡ししているようです。教会が誕生して初期の、まだユダヤ人が多数であった頃に、その教会が学ぶためのテキストとしてまとめられたのではないかと考えられます。

マルコは、主イエス・キリスト御自身により注意を向けています。これ以上の犠牲は考えられない神の御子の十字架刑にいたるまでの出来事、お働きが、生き生きと伝えられます。ローマの実践的な考え方をする人々に向けて発信された文書らしく、いくつかのユダヤの習慣に簡単な解説がこめられて書かれています。

ルカは、御聖霊の働きが、ユダヤという一地方から全世界に至るまで展開していくことに注意を向けているようです。歴史の中に人の子として来られたイエス・キリストが御聖霊と共に目覚しい働きをなさった逐一を、福音の拡大という出来事に見出しています。ローマ帝国の政府機関に収められる公文書らしい性格をもち、ユダヤ地方に発した神の国運動が、人類の歴史のなかに位置づけられるものとして記録されています。

ヨハネは、父なる神、子なるイエス・キリスト、御聖霊が、ひとつなる永遠のお方であって、この方が時を刻むこの世の中に来られたという、人の想像を絶する出来事に注意を向けているようです。時の流れを知り、時の中に事を定めることのできるお方は、ただこの方だけです。時空を越えて私たちのところに送り届けられている物語に共感できるのは、登場人物の個人的な経験が私たちにもあてはまることを見出すからです。

4.四福音書の調和表

それぞれの視点で書かれた四つの福音書は、必ずしもすべて時間順に書かれているわけではありません。それを組みなおして、全体を時間順に並べて一覧にしたものがいろいろとあります。それらを四福音書の調和表と呼びます。

四福音書の調和を学ぶ意義は、第一には、イエス・キリストの出来事を、より詳細に知ることにあります。時間順に並べ直すだけではなく、出来事を多面的に記録している4つの福音書を読み比べることで、出来事の中身をより深く知ることができます。

出来事の記録が、それぞれの記者によって時間順だったり、テーマ別だったり、その組み合わせだったりと、さまざまです。ヨハネは時間軸に沿った記述に徹しています。有名な「ペテロの否定」の場面は、イエス・キリストの裁判と同時進行していることがヨハネの記録から生々しく伝えられます。マルコも6章まで「すぐに」という言葉を多用して、イエス・キリストが次々と活動しておられることを逐次記しています。それでも、ペテロの否定場面は、裁判とは別に切り離して描いています。ルカも、だいたいは時間軸に沿って、しかも、イエス・キリストの教えをそれが語られているさまざまな状況と共に記録していますが、大枠としてはテーマが優先されます。イエス・キリストのバプテスマの記事は、それがはっきりしています。

けちをつけたい気分のときに福音書の比較をすると、いくらでもけちをつけられる箇所は出てきます。あれこれ読み比べていて、けちをつけたい箇所が出てきたら、逆に、自分は今けちをつけたい気分のさなかにいるんだ、と自覚できます。福音書の全体を、まるごと受け止められるような精神とは、「どうでもいい」ということではありません。単に、細かいことには目をつぶって、ということとも違います。やはり、その記事の書かれた意図や目的に迫る努力がわたしたちには必要で、それは、深遠な神を知るうえでなによりも大切です。一人の人をより深く知ることだけでも、長い時間と忍耐が必要であるように。

そこで第二に、調和を考えることが、実際の出来事を見聞きした弟子たちや、資料をまとめた福音記者が、それぞれの言葉で記そうとした意図を考える材料になります。他の福音記者が書いていない、たとえばマタイが特別に注意を払って書きとどめたこの一文、この一語に、どんな真理がこめられているのか、といった風にです。

そのような作業のための基本的資料として、四福音書の調和表の価値があるのです。

四福音書調和表
ここに載せている表はもともとロバートソンの「四福音書の調和」目次を土台にして、細かい箇所で少し変更を加えたものです。スプレッドシートのデータがあり、そちらはソートも可能です。ご利用になりたい方、ご連絡ください。

5.福音書の構成

600004福音書構成

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