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45.ローマ3:7-8 絶対的な神の義(2)
7,では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。
8,「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。
嘘つきは信用できるのか?「私」が嘘つきであって、もし神の真理について語るとき、誰が「私」の言うことを信じることができるでしょうか?
だから「私」の言葉は全く意味をなさないことになってしまいます。
兄と弟のようかもしれません。たとえ弟は平凡であっても、兄が非常に乱暴者であれば、弟は平凡であっても兄に比べれば、ということだけで賞賛されることがあるのです。
生まれつきの人間にすれば、神の義はこの称賛される弟のように理解されてしまうのでしょう。まさに兄が乱暴者であるからこそ弟がほめられるように、神の義が明らかになるために人間が自分の罪・偽りで神の義を明らかにすることを助けているのだと思い違いをしているようなものです。
「私」は、自分の嘘で神の義を明らかにするのを助けてあげたのだから、神が「私」をさばかないようにと要求するのは正しいのでしょうか。
いいえ、決してそのようなことはありません。
「私」が神の真理を誤解していたのを改め、神の絶対的な真理を理解しない限り、神は依然として神の絶対的な真理に従ってその嘘つきの人を裁き、罰するのです。
考えてみましょう:「私」が神を代弁して神の教えを他人に知らせている時、「私」自身が神の教えを実践していないなら、語っていることについて人はどう思うでしょう?
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