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はじロー(18)不敬虔な者を義と認める⁉

はじめて読むローマ人への手紙4章4-8節

不敬虔な者を義と認める⁉

口先だけの言葉など何の意味もない、だから無言実行にしよう、と生きていたころがありました。

だから、今も、自分の気持ちを言葉に言い表すことが下手です。。。。と、言い訳。

神は、心を見る方です。それで受け入れてくださる方です。それを知った時、衝撃でした。心が揺さぶられました。

私が行動にあらわしていることは、その折々の心の移ろいそのままでしょう。人は、その一部分を見て、もしかしたらそれが私のすべてのように受け止めてしまっているかもしれません。でも神は、行動の一部分だけを見て判断するんじゃなく、心をまっすぐに見る。

だから、何とか行動で証明しようとして、失敗を繰り返している私の「不敬虔」さを、見過ごしてくださる。むしろ、報酬を得られるだけの十分な働きをしたから「敬虔」だと認めてくれるのではなく、神を信じようという決心を認めてくれたのでした。

ダビデ王が、生涯の中で唯一ひどい罪を犯してしまいます。その時の心を吐露したものと考えられる詩があります。

幸いなことよ
その背きを赦され 罪をおおわれた人は。
幸いなことよ
主が咎をお認めにならず
その霊に欺きがない人は。
詩篇32篇1-2節

英雄の一人と数えられる忠信な部下の妻を奪い、妊娠が発覚したところでその部下を戦争の最前線で死なせたのです。

そのような人物が、リーダーとして人々の信望を受け続けることができるのでしょうか。

神は、潔く罪を認めたダビデを赦します。すべての経緯はイスラエルの預言者による公文書として公開されます。そしてダビデは、赦されたさいわいを詩にしたのでした。

不思議なことに、パウロはダビデの詩を引用するとき、「主が咎をお認めにならず」のところで切ります。まるで、「その霊に欺きがない」ことは赦されるための前提条件ではなく、赦された人の霊が欺きのないものに変えられて行くかのように。実際、パウロはローマ人への手紙で、罪を赦されるまでの段階と、赦された者がさらに変えられて行く段階とを分けて、書き綴っているのです。

まず、赦しがある。罪がおおわれる。咎を認めない。そのための人間の側の条件は、まるで何もないかのようなダビデの書きっぷりを、そのままパウロは手紙に展開するのです。人間に必要なことは、そのように赦して下さる神を信じることだ、と。

赦しの神に振り向いてからが、新しい人生の始まりになったのでした。

ローマ人への手紙4章6‐8節

働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。同じようにダビデも、行いと関わりなく、神が義とお認めになる人の幸いを、このように言っています。「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」


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