見出し画像

献身と賜物 ―キリストの召しに献身する教会―

兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。(ローマ12:1)

このところ、「召し」という言葉に少しばかりこだわりながら、色々と考えている。教会では「召される」という言葉がけっこう権威を持っているからだ。

この言葉には、主ご自身の権威が明確に現れている。今頃の世相では、非常に高位の方から「召される」という感覚は、まずないのではないか。だれもが平等であって、他人から命じられたり、他人に命じたりすることもほとんどタブーとされている感じの世の中になってきている。しかも、「高位の方」と接することなど、皆無。

おそらく、戦前は、天皇陛下や皇族の存在はもっと現実的な権威であって、普段耳にすることもない言葉のやり取りがなされなければならない天上の存在として受け止められていたのだろうと想像する。そうした社会を肌で知っている人にとっては、「召される」という言葉もまた、そんなに違和感あるものでもないだろうと思う。御前に召されることは、何よりも光栄なことなのだ。

神に召されるとは、まさに光栄のいたりというところ。ルカは、「弟子たち」が呼び寄せられた者たちであったと記す。マルコは、その人々が「みこころにかなった者たち」だったと記す。主は、何か基準をご自身で定めておられて、その基準に従って「弟子たち」を召されたのであったのか。クリスチャンと呼ばれる人々は、なにか優れたものがあったから、召されて弟子となったのではない。逆に、自分が無に等しい者であることを教えられる者だ。それを自覚するが故に、「わたしのもとにきなさい。あなたがたをやすませてあげよう」(マタイ11:28)という招きに応答して、やってきた者たち。

神にあなたがたのからだをささげなさい。「献身者」とは、この1節に応答して生きる者だ。「献心者」ではない。心を尽くして身をささげる。

1章で、「ローマにいる、神に愛され、召された聖徒一同へ。」(1:7)とパウロが呼びかけていたローマの(諸)教会。11章までの内容は、召されているとはどういうことなのかの詳しい説明でもある。パウロは、ここまで「教会」という言葉こそ使ってはいないけれど、福音の啓示を受け入れてキリストと一つにされて、御霊に導かれている者たちの集まりは、教会にほかならない。その「あなたがた」に語られるお勧め。12章からが、召された者たちが集まって、どのように生きるべきなのかを語る。第一が、あなたがたのからだをささげなさい。これが、キホンのキ。

パウロの呼びかけは、ローマにいる聖徒たちのなかで、個人的に、何人かが応答すればそれで良い、というものではないような気がする。手紙が読み上げられた教会全体が、みんなで一緒に応答するように呼びかけている。「兄弟たちよ」「あなたがたに勧める」「あなたがたのからだを」という具合だ。あなたがたが一体となっている、みんなが、一緒にキリストの言葉によって整えられ、キリストの言葉に従って歩む者となる。先にも引用した1章7節でも、「聖徒一同」という呼びかけがなされていた。

キリストによる新しい契約によってひとつとされた共同体である教会は、キリストの新しい戒めを何よりも優先させるのは当然。それが、「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)。

当然、「互いに」と言われている戒めは、単独で実行されるものではありえない。そこに居合わせた人たちすべてが、同時にこの戒めを聞き、一緒に実行することを決心してはじめて、実現するものだ。キリストが教会に与える数々の戒めは、すべてこれを土台としている。

キリストを信じた一人ひとりが、このことを、自然に体得するわけではない。だからこそ、パウロはローマの(諸)教会にこの手紙を書かなければならなかった。どうしても福音を伝えたい。パウロのその熱意は、ただ天国行きの切符を持ってもらいたいというだけが目標なのではない。教会が、キリストの召しをはっきりと自覚し、一同そろってその召しに従って歩もうと、自らをささげる決心をすることが必要だったのだ。

その妨げとなるのが、死ぬべきからだ、肉の思いにとらわれていること。それから救われてこそ、私たちは神に生きる者となり、神の御栄光を現す者とされる。

献身者とはだれか。教会が一体となってキリストに従って歩むべきことを自覚した者であり、その実現のために自分のからだをキリストに捧げた者だ。そこで、神の御栄光が現されることになる。それは、伝道者に限定されない。「一般献身」という用語もあるけれど、パウロはここでは召された教会の皆「あなたがた」に対して「献身」を熱心に勧め、お願いしているのだ。

その献身者たちに対して、パウロは次に、教会の働きの賜物について筆を進める。教会の働きは全て、献身が前提だということなのだろう。

特にここでは、「預言」「奉仕」「教える」「勧め」「寄附」「指導」「慈善」の7つをパウロはあげている。

「預言(プロフェーテイア)」とか「教える(ディダスコー)」、「勧め(パラカレオー)」、「指導(プロイステーミ)」という、現代の牧師や教師などの「指導者たち」にふさわしい賜物が、ここではそれぞれ別々にあげられている。これらは、職種としてではなく、教会での働きを具体的に推進するために、教会の献身者 一人ひとりに神が与えてくださる、まさに賜物。

クリスチャンではない人でも、奉仕をしたり、寄附や慈善の働きをしたりする。パウロの言う「賜物」には、この世の奉仕、寄附、慈善と何か違う点があるのか。弱者を助け、貧しい者に施すことは、心ある人にはクリスチャンでなくとも普通のことだ。名誉のためにではなく、ホンの小さなことと、多くのボランティアたちが活動している。それらのすばらしい人々と、教会の働きとしてあげられているものとの違いは、神の御言葉に押し出されて、神の賜物を自覚して、それを用いることによって神に栄光を帰することにあろう。神を知らず、自分にある物を神の賜物と知らない人との決定的なちがいがここにある。

これらの働きは、教会の中の特別な人々だけに与えられているのではなく、全教会が献身し、神の賜物を用いて、神の栄光を現すように、というのが、パウロのこの手紙によって明らかにされていることだ。クリスチャンはすべて、教会において神の御栄光を現すべく、賜物を自覚するように教えられ、指導される必要があるだろう。

そして、パウロがローマに書き送ったこの手紙の目的を合わせて考えると、異邦人への宣教と貧しい聖徒への援助を、神の御心に従って自発的に行うことが、神の賜物を用いることと結び付けられよう。主イエス・キリストが教会を召しだした目的が、ここにある。そのための具体的な行動が教会で実行されることによって、主の召しに答え、神の御栄光が現されるように。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?