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はじロー(6) 民族に垣根をつくらない神

ローマ人への手紙2章9-11節

世界宗教とか民族宗教とか、神に、区別もなにもありません。人間は皆同じ。神の前に平等です。

人は、つい何かすごいことが行われると、それにかかわった人をあがめたり恐れたりしやすいもののようです。

イスラエルの歴史で荒野を放浪していた時、神に逆らった人々の一群が、大きく割れた地に飲み込まれて滅びた時、モーセがそれをやったのだと思い込んで、「あなたが神の民を滅ぼした」とモーセ批判に走ってしまっていました。人間モーセが大地を引き裂いたり戻したり、できるはずがないのに

もちろん、地上のすべての災害が神の刑罰というわけではありません。神の民だからこそ大きな責任が与えられていて、直接神が介入している時だったからそのようなことがあったのでした。

でも、今はそうじゃない、私は神の民ではない、と言って、神のさばきがない、と思うのは神を侮ることになってしまいます。神に対してふさわしい畏れを心に持っていることは、すべての人に重要だ、ということを認識しなおす必要があるでしょう。今の時代はなおさら。

人はそれぞれに素晴らしい、と互いに認め合うことの上に、神を忘れないように。イスラエルだけの神ではなく、ギリシャ人にも、他の民族すべてにも、神は神です。

そしてもちろん、再度ですが、苦悩と患難だけが神からくるのでもありません。光栄とほまれと平安が、すべて善を行う人に与えられるのです。人の称賛ではなく、神の称賛。

人に褒められる、ということも、それに慣れてしまうと、またぞろ、それを求めて次の行動を考えてしまいがち。どうも、いずれにしても神を忘れてしまいそうになるのがこの世の習わしです。

そして、神に心を向けるよりも自分の行動に心を向けてしまうところもまた、人の習わしかも。

そこをぐっとこらえて、しっかりと目を神に見据えることを、パウロから学ばなければ、と思います。

 悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである。
ローマ人への手紙2章9-11節

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