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イエスの捕縛

マタイ26:47-56

聖書をドラマ仕立てで映像にしているものが多数あります。

映画だと、古くは、「十戒」。1956年のハリウッド映画で、イスラエルがエジプトから脱出する話が描かれています。圧巻は、エジプト軍に追われて逃げ場なく海岸におびえて立つ百万の群衆が、モーセが指示した杖の先の海が左右に分かれ、乾いた道となって、そこを群衆が逃げ行く場面。

マタイの福音書も、聖書の言葉通りのナレーションとセリフで作製されたドラマがあります。イエス・キリストの捕縛の場面は、そうしたドラマで見ると、まどろっこしい感じがどうしてもしてしまいます。聖書の言葉が正しく伝わるように、という目的で作られているのでしょうから、殺気立って早口に怒鳴るようなセリフまわしで、聞き取りにくいようなものにはなりません。

武器を持った数百人の兵の一隊が取り囲み、ただひとりの人を捕らえて連れ出すのに、1分。長くても2分かな~、と思います。のんびりしていたらどんな奇跡を使って逃げられるかわからない、というので、捕らえるべき人物をユダがはっきりと示す手筈も整えていました。ともかく、早く仕上げよう。

切羽詰まった中でのやりとりです。

 それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。 立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。
 そして、イエスがまだ話しておられるうちに、そこに、十二弟子のひとりのユダがきた。また祭司長、民の長老たちから送られた大ぜいの群衆も、剣と棒とを持って彼についてきた。 イエスを裏切った者が、あらかじめ彼らに、「わたしの接吻する者が、その人だ。その人をつかまえろ」と合図をしておいた。 彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。 しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々は進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。
 そのとき、イエスは群衆に言われた、「あなたがたは強盗にむかうように、剣や棒を持ってわたしを捕えにきたのか。わたしは毎日、宮ですわって教えていたのに、わたしをつかまえはしなかった。しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書いたことが、成就するためである」。
 そのとき、弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げ去った。

マタイ26章45-56節

1.イスカリオテのユダ

群衆を率いて先頭に立ってきたのは、イスカリオテのユダでした。イエス・キリストが三人の弟子たちを起こしてまだ話をしているところにやってきます。

まだぼんやりした頭で、ざわざわと群衆がやってくる先にいるユダを見た弟子たちにしてみたら、いったい何が起きようとしているのか、すぐにはわからなかったことでしょう。

そうこうしているうちに、ユダが進み出て、イエス・キリストに挨拶をします。

中東では、男性でも一瞬、右続けて左と、両頬を合わせるような「接吻」の挨拶をします。トルコの東部の町のレストランで知り合ったコックさんの自宅を訪問した時、そのコックさんのご主人が挨拶をして、この「接吻」の挨拶を受けたのを忘れられません。

「先生(ラビ)、いかがですか」と尊敬を込めたような言葉で語りかけながら挨拶をしたユダの目的は、「これがイエスだ」と、捕縛のための指図をすることでした。

その一瞬の中で、イエス・キリストは、「友よ、何のために来たのか」と呼びかけた、とマタイは書きます。

弟子たちのみんなに対して「友」と呼んでいたイエス・キリストは、ここでなおユダを決して除外していないことがわかります。そして、叱責の言葉ひとつ言わず、最後まで自発的な悔い改めをするようにとのチャンスを与えているのです。

そして、自分が何をしようとしているのか、この行為の結果がどうなるかをわかっているのか、が問われているようです。

ユダは、もちろん、イエス・キリストが必ず十字架にかけられなければならないこと、それが、人間の罪のいっさいを贖うためであることという、キリストの最大の目的を知らないで、このことをしています。

「あなたはいったい何のためにここまで生きてきたのか」と問われているかのような、言葉です。

2.剣

イエス・キリストが捕らえられた時、ひとりの人が剣をもって突進します。おそらく、ユダのすぐ後ろにいて、イエス捕縛の責任者とわかる人物だったのでしょう。マタイは名前を出していませんが、他の福音書から、切り付けたのがペテロで、耳を切られたのはマルコスだったとわかります。

ペテロは、「自分は決してつまずかない、自分が死んでも知らないなどとは言わない」と強気を崩さなかった言葉通りに、果敢に刃向かい、敵の一人に痛手を負わせます。

ペテロには最初の一人、というつもりだったかもしれません。でも結果的には、ただ一人だけ傷を負わせただけで、終わってしまいます。

というのも、イエス・キリストが止めたからです。

イエスを助けなければ、と、すぐに行動を起こしたペテロでしたが、思いもよらない言葉に、虚を突かれた感じだったのではなかったでしょうか。

そして、いったいどうしたらいいのか、考えは混乱したはずです。敵をとどめるのではなく、弟子をとどめるなんて。

「何を言っているんだ、イエス様!? いったい何をしたいんだ?!」

イエス・キリストが受難を予告した最初の時に、ペテロはイエスを自分の脇に引き寄せ、戒めて、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言っていたのです。

ペテロの思いにこたえるように、イエス・キリストが語ります。

「剣をとる者はみな、剣で滅びる。」

今それを言う時か、とペテロは思ったかもしれません。剣をとらなければ、滅ぼされてしまうのはこちらだ、と。

「チョ、ちょっと待ってくださいよ・・・」

などと、対話をする時間などありません。事は、止まることなく動いているのです。そして、イエス・キリストの言葉が続きます。

「それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。」

ペテロは、これで自分の誤解に気づいたでしょうか。イエスが本当は何者なのか。言葉では「神の子」と呼んでいたこの人物が、本当は底知れぬ力を秘めた方だ、ということを。自然をも動かす力があったことを思い出し、この言葉に瞬間的に畏怖を抱き、ペテロは動きを止めてしまったと思えます。でも、まださらにその先がありました。

3.預言の成就

「しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

目の前にいる兵たちは、一軍団の十分の一でした。それに対して、「十二軍団以上の天の軍勢を呼び寄せることすら願うことができる、けれども、それはしない。なぜなら、神の御心はこの捕縛部隊を滅ぼすことではないからだ」。

イエス・キリストが滅ぼすべき敵は、罪であり、死でした。それが、預言の内容だったのです。

イエス・キリストに敵対して、この軍勢を送り込んだユダヤ教指導者たちは、3年余りのイエスの教えと奇跡の力を知っていました。本来なら、聖書の預言をよりよく知っている宗教家たちこそ、イエスが預言通りの「キリスト」であり、イスラエルを再興する王であることに気がつくべきだったのです。

でも、そうはなりませんでした。かえって、「強盗」と同じような扱いをします。

なぜ、そうなってしまったのでしょうか。民衆は、熱狂するほどにイエスの到来を喜び、王にしようと持ち上げていました。多くの奇跡を経験し、見聞きした群衆は、これこそキリストだ、と疑わなかったのです。でも、宗教家たちは断固として認めませんでした。

それがこの後の裁判の席で、よりはっきりしていきます。

弟子たちは、事態が最悪に陥ったことを悟り、皆、逃げ去ります。彼らにとっての救世主運動は、これで潰えたのでした。

弟子たちが、目の前にいる敵が本当の敵ではないことを知るのは、、、、


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