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パンと葡萄

マタイ26:26-29

インドネシアに暮らしていると、日本の主食は何?と、時々尋ねられます。まだ「コメのご飯」でいいのでしょうね。

インド北部だったらチャパティとかナンとか。中東もそうしたパンです。

ユダヤの三大祭の一つ、過越の祭の食事では、イーストの入らないクラッカーのような「パン」や苦菜、子羊の肉を食べるように、旧約聖書では規定されていました。紀元前15世紀 (異説あり)のエジプト脱出を記念する祭です。

新約聖書に記される「過越」はギリシャ語でパスカと呼ばれ、インドネシア語聖書はその音そのままにpaskahと音訳しています。

(下記の記事の続きです)


A.過越の食事の起源

アブラハムの孫ヤコブの時代に、飢饉の難を逃れて一族郎党エジプトに移住したのが、400年間で数百万人の民族となっていました。その数の多さに恐れを抱いたエジプトは、奴隷としてイスラエル民族を扱うようになります。その苦境から脱出したのが「出エジプト」と呼ばれる出来事。

その時の出来事から記念として毎年行うように定められたのが、「過越の祭」でした。神の怒りから救われることを象徴的に意味するものです。

出来事の次第はこんな感じ。

預言者モーセをリーダーとして、エジプトを出たいとファラオに願い出るのですが、格安の労働力をエジプトがみすみす手放すわけはありません。そこで、神が10の災いをエジプトに下します。

その最後が、長子が死ぬ、という、神の怒りが下される災い。表の扉の柱とかもいに犠牲の子羊の血を塗っておいた家の子供は助かる、とあらかじめ伝えられていて、そのとおり行った家庭からは災いが「過越」して行ったのでした。聞いても実行しなかったエジプト人の家庭の長子は、ファラオの子も民衆の子も、すべて死んでしまいます。

イスラエルの民は、せき立てられるようにエジプトを出ます。食事も、イーストを混ぜて発酵を待ってパンを焼く、などという悠長なことはしていられません。すぐに出かけるために、イーストの入らないパンねたを用意して、すぐに出立。このパンが、その後毎年行われる「過越の祭」の食事の一つとなります。

神の救いを記念し、さらにはイスラエル王国のルーツを毎年再確認しながら、紀元1世紀には王国再建を強く夢見ながら、この祭を行っていたのです。

そして、神の怒りの結果である「死」から救われること、つまり永遠のいのちを得る機序の象徴がこの祭に込められていたことが、新約で明らかにされます。

B.パンと葡萄

福音書に記されている「過越の食事」は、出エジプト記に記されているメニューに、葡萄酒(葡萄を絞ったジュースはすぐに発酵が始まりますが、新しいものはまだ「酒」と言うほどのアルコール度はありません)の杯が加わっています。1世紀当時、すでに習慣化された式次第に入っていたのだと思われます。

この過越の食事の式次第では、杯は4回飲むことになっていて、またパンは3枚を家族で分けます。しかし、福音書の記事は、他の余分なことをすべて省略してパンから始まります。

ここでのパンはもはやエジプトを脱出するときの慌ただしい食事の記念としてではなく、「わたしのからだ」だとイエス・キリストは告げます。まず2つに割かれたパンは、キリストの身体が引き裂かれることを表しているのだ、と。しかも、これは祝福をあらわしているのだ、と。

キリストの割かれた身体を食べるように、弟子たちは分けられたパンを取って食べます。

次に杯を取り、感謝すべきものとして弟子たちに与えられますが、これはキリストの血を表すもので、十字架で流す血が罪の赦しを得させるのだ、と。

「契約の血」は、やはり出エジプトの時に神とイスラエル民族との間で交わされた契約を踏襲しているもの。

聖書の神は契約が好き。約束を実行する神です。紀元前15世紀の約束を受け継いで、イエス・キリストが新しい契約として更新する場面が、この杯なのでした。

C.父の国であなたがたと共に

最後に、とても不思議な言葉が語られます。しばしば、もう葡萄酒を飲まない、つまり禁酒の教えだ、として言われることもある言葉なのですが、「父の国」での「その日まで」という意味が、ここだけからだと全く不明です。

新約聖書の記事は、それまでの歴史を知らないではチンプンカンプン、ということになるのです。過越の食事についても同様でした。イスラエルの出エジプトを記念した祭を知って初めて、その意義が理解できてきます。

「父」とイエス・キリストが言う時には、もちろん「父なる神」。ですから、「父の国」は、「神の国」と言い換えられるものです。出エジプトの時に神が民族救出という大規模なレベルでの奇跡を行い、イスラエル王国の時代には大帝国の軍隊を退散させることもありました。神の統治が目に見えてなされる国。イスラエルの神を信じない多民族にも直接経験されるほどの力が表される国。それが神の国です。

それが地上に樹立される、という表明です。その日が来たら、イエス・キリストが弟子たちと再び葡萄酒を飲む。その日までは、決して飲まない。

なぜかと言って、この過越の食事の後、まもなく捕縛され、裁判にかけられ、十字架で殺されてしまうからです。それだけではありません。三日目に復活し、40日後には天に戻って行くのです。つまり、天から地上に再びやってくる日を指しています。

その時には、全地は、天国と呼ぶにふさわしい状態に治められることになるのです。

これは、預言者モーセによってイスラエル民族が救出された出エジプトよりもさらに500年前の、アブラハムの時代になされた神の約束に基づくことです。

わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
あなたをのろう者をわたしはのろう。
地のすべてのやからは、
あなたによって祝福される」。
創世記12章2,3節

聖書の契約は、地のすべての民族が神の祝福を受ける、というものだったのです。そのための準備が、イエス・キリストの死。キリストのからだの象徴である裂かれたパンを食べ、キリストの血の象徴である葡萄酒を飲むことは、キリストの十字架の死を、自分のものとして受け止めることの象徴でした。

福音書の中で、唯一と言っていいほどの、キリストの死の意義が語られる場面。

今、歴史は、その時に向かって進んでいる、と、私は信じて、期待しているのです。

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである」。

また杯を取り、感謝して彼らに与えて言われた、「みな、この杯から飲め。
これは、罪のゆるしを得させるようにと、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

あなたがたに言っておく。わたしの父の国であなたがたと共に、新しく飲むその日までは、わたしは今後決して、ぶどうの実から造ったものを飲むことをしない」。

マタイ 26章26-29節



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