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イエスの葬りの用意をしたただ一人の人マリヤ

マタイ26:6-13

生前葬というのを、今では時々話を聞きます。2000年前に、それをイエス・キリストに対して行った女性がいました。ベタニヤのマリヤです。「葬りの用意をした」、といって、生前葬だったのです。

他の弟子たちはカンカンになって怒ります。なぜだったのか。それより、マリヤはなぜ生前葬をしたのか。実際、それから1週間目にイエス・キリストは十字架にかけられ殺されたのでした。

さて、イエスがベタニヤで、重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。

すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

マタイによる福音書26章6-13節

ベタニヤは、エルサレムから東に3キロ足らずの村です。そこに、イエス・キリストが懇意にしている3人家族がいました。姉はマルタ、妹がマリヤ。弟はラザロ。そのマリヤが、この場面の主人公です。この出来事から60年後に書かれたヨハネの福音書にはっきり名前があります。

マタイの福音書では、名前は伏せられています。ただ「ひとりの女が」とだけ。なぜだったのか。

また、マタイの福音書では、この記事の直前直後は、イスカリオテのユダが裏切って、イエス・キリストを引き渡す取引をした話です。ところが、実際にマリヤが「生前葬」をしたのは、ユダが裏切るよりも4日前でした。ヨハネの福音書が「過越の祭の6日前」と明らかにしているのです。ユダの裏切りは、過越の2日前でした。

マタイはなぜ、そんな数日前の出来事をあえてユダの裏切りの話とカップリングさせるようにここに置いたのか。

謎は尽きません。福音書に詳細が書かれていないことは多いのです。ただ、なぜマリヤが生前葬をしたのか、弟子たちはなぜ怒ったのか、は、マタイも記しています。

弟子たちの怒り

憤って言った弟子たちの言葉が書かれています。

「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。

マリヤは、「高価な香油」を無駄に流してしまえるほどに裕福な家庭だったのでしょうか。イエス・キリストがマリヤの家に行ったとき、姉のマルタが自分で忙しくもてなしの準備をしていた記事があります。家で下僕を使っていたような感じの記事ではありません。家族だけがつましく生活していたようです。

そのマリヤを咎めた弟子たちの、一番先に声を上げたのが、どうもイスカリオテのユダだったようです。ヨハネの福音書では、この言葉を語ったのがユダとされているのです。まずユダが声を上げ、他の「弟子たち」がそれに同調した、というところです。

イスカリオテのユダは、なぜ憤ったのか。ヨハネはあからさまに記しています。

彼がこう言ったのは、貧しい人たちに対する思いやりがあったからではなく、自分が盗人であり、財布を預かっていて、その中身をごまかしていたからであった。
ヨハネによる福音書12章6節

つまり、マリヤがその高価な香油を供出して換金できていたらかなりの額のお金になっていたはずなのに、それができなかったことに腹を立てていたのでした。

他の弟子たちは、おそらく、ユダの言葉にあった「貧しい人に」という点に同調したお人よしの怒りだったのです。ユダの思惑など全く知らないままに、ユダの声に合わせてしまったのでした。

謎は残ります。いったいどうやって、ヨハネはユダの魂胆を知ることができたのか、ということです。もしかしたら、キリストの十字架刑の前夜になされた過越の祭の食事の席で、ユダの裏切りに気がついたのかもしれません。ヒントをにおわせたイエス・キリストの言葉があったのです。

マリヤの「葬りの準備」

生前葬という言葉は、まだありませんでした。マリヤの心の中を読み取ったようなイエス・キリストの言葉が「わたしの葬りの用意をするため」。弟子たちの憤りは、的外れだ、と。

マリヤは、他の弟子たちが気づけなかったイエス・キリストの死を、どうして知りえたのでしょう。

キリストがエルサレムで捕らえられ、十字架で殺される、ということは、その半年ほど前から何度も繰り返して弟子たちに予告されていたことでした。でも、弟子たちはそれが全く理解できなかったのです。言葉が分からないのではありません。そんなこと起こりえない、キリストはそんな死にかたはしないはずだ、と思い込んでいました。

思い込みの根拠は、先祖たちからの言い伝えです。おおもとは聖書の預言だったのでしょうが、誤って解釈してしまっていたのでした。

弟子たちは、様々な奇跡を引き起こす力を持っていて、これこそ聖書でずっと預言されていた「王」だ、と信じていました。確かに、その「思い込み」は正しかったのです。でも、王になる前に、キリストはあがないの犠牲となって死ななければなりませんでした。それを示唆する言葉を、マタイは記録しています。

人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである
マタイによる福音書20章28節

弟子たちは、これが耳に入らなかったのでしょうか。繰り返された死の予告は、弟子たちの心には届いていなかったのでしょうか。

どうも、身勝手な強い思い込みは、キリストの言葉を心から追い出してしまうようです。

では、マリヤは? 彼女は、イエス・キリストの言葉を細大漏らさないように、一心に聞く人でした。イエス・キリストが語っている言葉通りに、出来事は進展する、と理解し、信じたのです。それが、おそらく涙を流しながら、高価な香油を注ぐという行動に駆り立てたのでした。

聖書の預言は、一心に聞きとる人の心に語りかけてくるのでしょう。何が身勝手な思い込みか、何が語られた言葉通りに起こるべき事柄なのか、このマリヤの態度に倣って聞き取る耳を養っていきたいものです。

続きは、、、


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