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ローマ人へのパウロの手紙 ノート

Epistle of Paul to Romans
「わたしたちはいかにして生きるか」

~神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(1:17)~

福音書と使徒行伝を通して、福音の事実、神の働きが全民族のためであったという歴史を明らかにしたあと、次に新約聖書が提示しているのは、パウロがローマの聖徒たちに書き送った「義人は信仰によって生きる」をテーマにした手紙。キリストをまだ知らない人にとってはもちろん、すでに知っていると言う人にとっても、「人はいかにして生きるか」という問いに対する答えは、キリストへの信仰によって生きる、というもの。それを詳細に論じています。

日曜日がキリスト礼拝の日になったのが、キリストの復活を記念してのものであったように、教会で毎週語られるメッセージは、この復活のキリストが十分に現されるものでなければならないでしょう。わかりやすい福音が常に語られてこそ、人は、諸教会の中にあって神の力に満ち、生かされ、世界に向けて働きかけ続けていくことができるのだろうと思います。

著者・手紙の背景

パウロ、と冒頭に記されています。ほかの手紙では、しばしば同行者の名が併記されていますが、この手紙にはパウロの名だけです。他に、パウロの名だけになっているのはエペソ人への手紙。

特に何か問題があるわけではない教会への手紙が、パウロの単名で送られているように思います。トラブルに対しては、二人または三人の証人のもとに明らかにされるべき、律法の基本に基づいているのでしょう。

「わたしは、そこに行ったのち、ぜひローマをも見なければならない」(使徒19:21)と強い希望をパウロは持っていました。これは、パウロの個人的な希望というより、御霊に示されてどうしても行かなければならない、との確信を持っての発言だったようです。

「そこで、自分に仕えている者の中から、テモテとエラストとのふたりを、まずマケドニヤに送り出し、パウロ自身は、なおしばらくアジヤにとどまった。」(使徒19:22)

ちょうどそのあと、エペソで騒乱が起き、パウロもエペソにとどまり続けることができなくなり、マケドニヤに向かって出発(使徒20:1)。そこをとおり、ギリシャに来て、3ヶ月を過ごします。ここでローマの聖徒たちに手紙を書いたのです。AD57年と考えられます。

マケドニヤの教会は、エルサレムの聖徒への支援をしたことが、コリント人への手紙に記されています。ローマへの手紙の内容は、そのマケドニア、ギリシャでパウロが語った教えをまとめたものだったかもしれません。どのようにこれらの教会が熱心に捧げものをして宣教と愛の支援をするようになったか、その基本的な教えを、パウロはローマの聖徒たちにも伝えたかったのだろうと想像します。

テモテたちは先にマケドニヤに来ていました。合流して、一緒にギリシャに行ったのでしょう(ローマ16:21;使徒20:4)。

テモテの名前は、16章に出ています。「わたしの同労者テモテおよび同族のルキオ、ヤソン、ソシパテロから、あなたがたによろしく。」(ローマ16:21)ほかの手紙では、テモテが同行しているのであれば連名になっているのが普通です(2コリント1:1、ピリピ1:1、コロサイ1:1、1テサロニケ1:1、2テサロニケ1:1、1コリント4:17)。

手紙は、ケンクレヤにある教会の執事、フィベ姉妹によってもたらされたものだったでしょう(16:1)。

ガラテヤ人への手紙が、この手紙と非常に似た内容を伝えています。おそらくガラテヤ人への手紙は、「律法の下にある人」に特に向けて書かれているもので、ローマ人への手紙が「ユダヤ人をはじめギリシャ人」に向けて書かれている点で大きく異なったアプローチになっているのだろうと考えられます。


概略

「信仰に始まり信仰に至らせる、福音の中に啓示された神の義が、人を義人として生かす」

第I部 (1:1-17) で、福音宣教の働きの核心、この手紙のテーマが提示されます。「信仰による義人は生きる」と旧約聖書の預言者ハバククが伝えていた啓示を、パウロはイエス・キリストの啓示にあって、福音の中に啓示された神の義をこの手紙で論じます。信仰に始まり、信仰に至らせる、と記されている神の義は、人間を生かすものでした。

第II部 (1:18-5:11)、その義人とは誰か、人が義人として生きる者になるためになされた神のみわざが論じられます。信仰によって始まる部分です。

第III部 (5:12-16:27) がこの手紙の実質的なテーマである「生きる」こと。義人とされた者が、どのようにして古い自分に決別して義人として現在を生きていくか、が描かれます。信仰に至らせる、と記された部分。

神の義の中で、教会の位置はどこにあるのでしょうか。「教会」という言葉は16章まで出てきませんが、6章のバプテスマについて、8章の御霊に導かれることについて、10章の御言葉を語り伝える者として、さらに12章以降の聖徒たちがひとつになって活動していく者としての教会が、義人が生きる場(集団)として、なくてはならないものと考えられます。

I. 福音の信仰による義人は生きる 1:1-17
II.ユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって義とされる 1:18-5:11
III.義とされたユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって生きる 5:12-16:27

梗概

I. 福音の信仰による義人は生きる 1:1-17

  (1) 1:1-7a あいさつ・福音の核心
  (2) 1:7b 祝祷
  (3) 1:8-17 ローマ来訪・福音宣教拡大への熱望

II.ユダヤ人もギリシャ人も福音による信仰によって義とされる 1:18-5:11
II-1.すべての人間は罪人 1:18-3:20

  (1) 1:18-23 神の怒り
  (2) 1:24-32 神の放置
  (3) 2:1-29 神のさばき
  (4) 3:1-8 真実な神
  (5) 3:9-20 全ての人は罪人

II-2 キリストの贖いへの信仰によってのみ義とされる 3:21-4:25


  (1) 3:21-31 信仰による神の義
  (2) 4:1-8 自分を誇らないアブラハムとダビデ
  (3) 4:9-25 義認をもたらす信仰

II-3 義とされ神との平和を得た者の喜び 5:1-11

III.義とされたユダヤ人もギリシャ人も福音の信仰によって生きる 5:12-16:27
 
III-1 すべての人が死のからだからの救いを得て生きる 5:12-8:39

  (1) 5:12-21 一人の人による「死」「命」
  (2) 6:1-14 罪に死に義に生きる:
  (3) 6:15-23 罪の僕、義の僕
  (4) 7:1-6 律法からの解放
  (5) 7:7-25 心と肉の律法

  (6) 8:1-11 キリストにあって御霊に従う者
  (7) 8:12-17 御霊に導かれる神の子
  (8) 8:18-27 栄光にいたるまでのうめき
  (9) 8:28-39 神の栄光の成就

III-2.すべての人が神のあわれみで信仰によって救われて生きる 9:1-11:36
  ~特にイスラエルに関する預言~

  (1) 9:1-5 兄弟のゆえの悲しみ
  (2) 9:6-13 真のイスラエル
  (3) 9:14-18 神のあわれみの対象
  (4) 9:19-33 信仰者の選び
  (5) 10:1-4 イスラエルの過ち

  (6) 10:5-13 信仰の言葉

  (7) 10:14-21 宣べ伝えられた言葉
  (8) 11:1-10 恵みの選び
  (9) 11:11-12 救いが及ぶために
  (10) 11:13-24 オリーブの根と枝
  (11) 11:25-36 イスラエルの救い

III-3.信仰によって救われた者が神にささげて生きる霊的な礼拝 12:1-15:13
  ~特に異邦人に関するキリストの律法~

  (1) 12:1-2 霊的な礼拝
  (2) 12:3-21 まとまりある聖徒
  (3) 13:1-7 上に立つ権威

  (4) 13:8-10 律法を全うする愛
  (5) 13:11-14 時が近づいていることを知る生活
  (6) 14:1-12 兄弟を受け入れる

  (7) 14:13-23 兄弟をつまずかせない
  (8) 15:1-6 弱さを担う
  (9) 15:7-13 神の栄光のための受容


III-4.パウロ 15:14-16:27
  ~神に生きた人の模範と神の働きの交わり~

  (1) 15:14-21 神への奉仕の恵み
  (2) 15:22-29 今後の計画
  (3) 15:30-33 祈りの要請
  (4) 16:1-2 フィベ
  (5) 16:3-16 ローマの同労者たちへ
  (6) 16:17-20a 最後の勧告
  (7) 16:20b 祈り
  (8) 16:21-23 パウロの同労者から
  (9) 16:24-27 祈り・頌栄

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