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はじロー(11)自分を罪人扱いしようとしている?!

はじめて読むローマ人への手紙3章5-8節

自分を罪人扱いしようとしている?!

聖書だとか教会だとか、よくわかっていなかった頃、「神」はつかみどころのないものの究極だったのですが、その反対に心に引っかかるのが「罪人」という言葉でした。

キリストの教えは、実行不可能なことを押し付けて、それができない者を「罪人」あつかいしているように思えることがしばしば。神に怒られると言っても、理不尽な怒りにしか思えなかったのです。

パウロの話を聞いた人の中には、もっと違った応答をした人たちがいたようです。

「神が正しいように見えるために、俺たちが悪を演じてあげているんじゃないか !」。まるで、悪を行うことで神に恩を売っているようです。悪人を創造した神がすべての責任を負うべきだ、悪人をさばく権利など神には無い、という考えが根底にあるのでしょう。

あるいは、ユダヤ人がイエス・キリストを殺した「罪」を、神がさばけるのか、ということだったかもしれません。キリストが十字架で死んだのは人類の罪を負うため、全人類の罪が赦されるためだ、というなら、キリストを殺したユダヤ人は罪に問われないだろう、と。

また、パウロ自身を偽り者だとレッテル張りする人たちもいたようです。

ユダヤ人に与えられた律法を無視するようにパウロは教えている、という誤解です。「神は律法の定めをちゃんと行う人間を良しとするはずだ。律法を守らなくても恵みによってのみ罪が赦されるとお前が言うのであれば、ちゃんと守ろうとしていた者が馬鹿を見ることになるではないか。そんなにも神のおヒト善しを言いたいんだったら、みんなもっと悪を行ったらいい。お前はそう言いたいんだろう」とパウロに対して訴えていたようです。パウロの伝えている恵みを曲解している人たちでした。

パウロの詳しい返答は、もう少し後から始まります。いずれにしても、神のなさることは、はかりがたいことが多くあるように思えます。ちょうど、パウロを直接知らない私たちにはパウロの手紙がわかりにくいように、神の出来事は、一筋縄では理解できないような感じです。

自分のことを思い返してみると、いちばんの問題は、自分が勝手に神をイメージしてしまっているところにあった、と思います。神はこうだ、と、決めつけてしまっていたこと。そして、神が私を愛しているのに、それを信じなかったことです。

インドネシア語で、「恵み」を ”KASIH KARUNIA” と訳します。KASIH は愛、KARUNIA は相応しくない者への賜物。恵みの解き明かしが「お説教」のように思えて、我慢して聞いてやろう、と思っていた時というのは、愛を受け止めていなかった時だったな~、と、今になって思います。

それが聖書で言っている罪。真実の神の愛が自分に向けられているのに、それを信じないで無視していたのです。そればかりか、「自分を罪人扱いしようとしている」と中傷する思いを抱いていたのですから。自分で知りもしないことを、まるで知っているかのようにふるまうことへの自戒の念を引き出してくれる箇所です。

ローマ人への手紙3章5‐8節

では、もし私たちの不義が神の義を明らかにするのなら、私たちはどのように言うべきでしょうか。私は人間的な言い方をしますが、御怒りを下す神は不義なのでしょうか。決してそんなことはありません。もしそうなら、神はどのようにして世界をさばかれるのですか。
では、もし私の偽りによって神の真理がますます明らかにされて、神の栄光となるのなら、どうして私はなおも罪人としてさばかれるのですか。「善をもたらすために悪を行おう」ということになりませんか。私たちがそう言っていると、ある者たちから中傷されています。そのように中傷する者たちが、さばきを受けるのは当然です。


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