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はじロー(19)歴史の中で一貫した真理

はじめて読むローマ人への手紙4章9-12節

歴史の中で一貫した真理

ぶどう園のたとえ話。

広いぶどう園を持っている主人が労働者を募りに、朝早く出かけます。通常の賃金で契約した労働者たちがぶどう園に行って働き始めました。9時ころ、その主人は市場で何もしないでただ立っている人たちを見て、「相当な賃金を払う」と約束してぶどう園に行かせます。そして12時と3時にも、同じように、人を集めたのでした。夕方5時、まだ立ち尽くしている人を見かけ、「なぜ一日中何もしないでここにいるのか」と尋ねます。「誰も雇ってくれないからです」。そう返事をした人たちを、ぶどう園に送るのでした。

夕方、主人が賃金を支払います。最後にぶどう園に来て、1時間も働かなかった人たちに、一日分の賃金を、みんなが見ている前で最初にあげたのでした。

丸一日働いた人は、何と思うでしょうか。しかも、一日働いてもらった賃金は、最後に来た、ちょっとしか働かなかった人たちと同じだけ。

当然のように、と言ってもいいのでしょうね。彼らは主人に不満をぶつけます。それに対する主人の答え。

『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』

神の律法の契約を3500年前にモーセを通して与えられたイスラエルは、失敗を繰り返し、痛い目に遭って、今度は意固地なまでにきっちり守ろうとする人たちが現れました。パウロはその一人で、初めは福音を拒否し、迫害する側だったのでした。そして「天国は近づいた」というキリストの福音に接して、信じたのです。

ところが、そこに律法のりの字も知らないような「異邦人」が入ってきます。割礼も当然していません。異邦人は、モーセの律法を行うことなく、キリストの福音を聞いて信じました。ずっと前から律法を受けていたイスラエルと同じように、何もしていない異邦人も、天国にするりと入ったのです。

当然のように、と言ってもいいのでしょう、イスラエルはこれに反発します。

それで、パウロは、モーセの律法以前にすでに明らかにされていた原則を、イスラエルに思い起こさせようとしました。彼らの父祖、アブラハムです。アブラハムが神に義とされたのは、律法の契約に含められるようになった割礼を受ける前だった、と。割礼なしに、アブラハムは義と認められたのだ、と。つまり、割礼のない者にとっても、アブラハムは「父祖」と呼べるのだ、と。

神の救いの契約は、時を超えて変わることなく、すべての人に向けて開かれていたのです。

もちろん、今も、です。

ローマ人への手紙4章9‐12節

それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。(新改訳2017)


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